闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「假名遣ひは價値觀」なる考へ方の誤

進化論も唯物論も、事象に對する價値判斷として機能する。「○○は生存に適してゐたから勝ち殘つた」――勝ち負けの判斷は價値判斷だ。「××時代には支配者と被支配者が鬪爭してゐた」――勿論、鬪爭の結果、勝つべき側が「ある」と云ふのが唯物論の考へ方だから、價値判斷が「ある」。
それらは「べき」論であるから主觀的な物である。成程、科學ではない。
が、「煤煙の多い街で、蛾は體色が黒くなる傾向がある」となれば、これは觀察可能な假説であり、適者生存説に基づいてゐたとしても、科學的な檢證が可能である。「黒くなる傾向がある」事は、別に良くも惡くもないし、價値判斷ではない。

我々の假名遣ひの問題で、爺氏は單純に「假名遣ひは價値觀である」と言つてゐる。けれども、假名遣ひは價値觀ではない。なぜなら、假名遣ひは、規則であり、分類であるから、客觀的存在であるからだ。それを「良い物・正しい物として採用する」ならば、その態度が主觀的であるに過ぎない。
歴史的假名遣ひを「正しい」とする立場では、「本來の日本語の書き方」を「正しい物として採用する」態度が價値觀として存在する。言ふまでもなく、「本來の日本語の書き方」はそれ自體として客觀的な存在であり、假説的に示す事が可能である一方、文献資料による反證が可能である。だから、それを「正しい物」と看なす態度が主觀的であつても、客觀的な存在として我々は「本來の日本語の書き方」を追求する事が出來るし、その研究を一種の科學として主張する事も出來る。

爺氏は、さうした科學的な研究に基づいてゐる「本來の日本語の書き方」を疑ひ、同時にそれを「正しい書き方として採用する價値觀」もまた疑つて見せてゐる。確かに疑ふならば何だつて疑へるし、疑ひたければ疑へばいいが――にもかかはらず、爺氏は、さう云ふ「疑はしい歴史的假名遣ひ」を、自分でも使つてみようとしてゐるのである。これが解せない。爺氏は、何を氣に入つて歴史的假名遣ひを使はうと思つたのだらうか。
「美しいから」? 「體系的で整合性のある規則だから」? 美を言ふのは餘りにも主觀的で説得力を缺く。體系性や整合性は、もちろん求める物だけれども、その爲にありのままの國語を拒絶し、歪曲して體系化・整合化をはかつてよいものではない――その爲には政治の力を利用して良いと爺氏は主張するわけだが、私にしてみれば、國語の問題は政治が介入してよいものではない。斯うなると、やはり爺氏は、政治的な思想――と言ふより、根本的な價値觀の違ひから、私に絡んで、私の主張を潰さうとしたのだと見るしかない。これは、Kirokuroなんかと同じだ。