闇黒日記?

にゃもち大いに語る

昔書いた事

昔の話。今の話。

大學の卒業論文は、松原先生がさうだつたからと言つて「T.S.エリオット」の題で書く事にした。俺の指導教官として松原先生がついて下さつたのだが、他の先生と違つて松原先生による御指導と云ふものは全く無し。先生によれば、大學生にそんなに大したものが書ける筈がない。だから、内容には期待しない。取敢ず一生懸命に書け。と。
で、俺の場合、一生懸命WX-3の辭書を弄つて正かな入力出來るやうにして、正かなでテキストを作つた。一生懸命なのは其處まで(?)、あとはWordで仕上げたけれども、内容はまあ大學生レヴェルと云ふ奴。第一部、第二部とやつて二部構成にしたのは、エリオットの事を書くには俺には文章の構成力がないから。昔から長い文章は苦手で、ぶつ切れ・細切れでもそれなりの恰好が附くやうにと、文章を細かく分けたに過ぎない。
今でも文章は下手だが當時はもつと駄目だつたから再録なんてしないけれども、内容は今でも信じてゐる事を書いたので此處に記録として書いておく。俺に興味のある人にはそれなりに興味を持てる事だらうと思ふ。俺に興味なんてないと言ふ人にもそれなりに興味をもつていただきたい事だし、よろしければ。

第一部では物語と云ふ事を論じて、物語は圓環構造の形態を持つべきものであり、張り巡らされた伏線を最後に囘收し、結果としてその物語の自己證明を完成させるべきだと書いた。これは今でも信じてゐる事なのだが、福田恆存さんが西歐作家論でサルトルの『嘔吐』を論じ、全く無意味なこの宇宙の中で、フィクションは完結した世界を持ち、自己の存在すべき理由を自ら證明してゐる事をサルトルが表現してゐると述べてゐたけれども、それを參考にしたもの。
前に渡邊さんと物語や小説或は評論に關して論じ合つて、話が全然噛合はなかつたけれども、渡邊さんが知識だか表現だかをそれ自體として面白がる讀み方をしてゐたのと違つて、俺はその物語それ自體の存在意義を要求する讀み方をしてゐたし今でもしてゐる。俺も語り口とか優れた表現とかを無視する訣ではないけれども、寧ろ巧みにストーリーが構成されてゐる事をこそ重視すると云ふ形式主義的側面が俺には存在する。
渡邊さんはいろいろな本を讀んでいろいろな表現に感心してゐるのだけれども、俺にしてみれば何でそんな事に感心できるのだらうと不思議に思ふ事頻り。渡邊さんも、感心するばかりで、なぜ其處が感心すべき事であるのか、を説明した事がない。妙にはつたりじみた表現が多くて、俺には渡邊さんの文章の面白さがよくわからない。


ちなみに卒業論文第二部は、一往第一部を前提としてエリオットの寺院の殺人と云ふ戲曲を讀んで見たもの。と、まあ、さう云ふ事なのだが、具體的には何を書いたか忘れた。本當に全部忘れたのだから仕方がない。やつぱり大した事は言つてゐなかつたのだらう。
先生は大學生にしては良く書けてゐるとコメント。他の人も同じ事を言はれてゐたから自慢にならない。表記の誤を何箇所か指摘された。言ふ・云ふとかの類だつたと思ふけれども具體的な記憶なし。後年、先生に再び御目にかかつたら、卒論の時の事も含め俺の事は全く覺えていらつしやらなかつた。