闇黒日記?

にゃもち大いに語る

今の個人サイトは全て「裏サイト」状態


現在、ウェブは「個人の領域」と「企業・組織のサイト」に完全に分斷されてゐる。
企業サイトや、もじらなどの組織のサイトは、ひたすらサーヴィスを提供してゐるが、そのサーヴィスを利用して我々は便利に生活してゐる。
一方、個人の領域に屬するのは掲示板、ブログ、プロフの類であるが、既に過去のものと化しつゝある「個人サイト」もそれらと一緒くたにされて、閲覽者は全て「物を言つてゐる人間」に對する興味を剥き出しにする。

前田嘉則氏が批判する「文化人」に限らない、「人間關係」でごたごたするのは今や「個人」の領域に屬するウェブの領域では「自然」の事となつてゐる。そこでは「何が言はれてゐるか」は全く問題にされず、「物を言つてゐる人間の人格が何うであるか」だけが問題にされる。
それで死人まで出てゐる現状だが、死人が出るやうな事はオフラインでも當り前にある事だ。「いぢめる側」は、氣に入らない人間を、屡々「死なせるまで追詰める」。それは、何の理念も拔きにただ嗜虐的な嗜好に基いて行ふのであるが、「いぢめる側」は常に自分逹に「正義」があるかのやうに振舞ふ。單に「人間關係のもつれ」だけの結果として血祭りに舉げられる側にとつてはどつちにしても同じなのであるが、「いぢめる」にしても人間は「正義」を必要とする。オフラインでも一々いぢめられる人間にいぢめる方は侮辱の文句を投附け、自己を正當化するが、それは記録に殘らない。
ところが、ウェブでは全てが記録に殘る。いぢめられる方でも何かを言へばそれは一々いぢめる側が記録して、「こんなにも惡い事をしてゐる」「愚かな事をしてゐる」と大々的に宣傳する。いぢめる側が自らの「正義」を宣傳するにはウェブは便利な場所だ。しかも、それがさらにいぢめられる側を追詰める。

人は、正義の名の下に至極冷酷な眞似をするが、一方で、名譽の爲ならば自ら死を選ぶ事もある。正義にしても名譽にしても「存在しないもの」だが、さう云ふものの爲に人は如何なる行動をもとる。

けれども、問題は、單に「人間關係」だけが「行動原理」となつてゐる事にある。我々は屡々、人が言つてゐる内容を無視して、發言者の人格を極附けて、罵る。發言者の或個別の發言について、その發言者の全體の意圖を正しく讀取る事なく、讀み手の都合に基いて歪曲し、ひたすら惡意で極附けて侮辱を加へる、さう云つた事は、「個人の領域」のウェブでは、「當り前」「自然」の事として普通に行はれ、しかもさうした行爲を「されたくなければウェブから出て行け」と云ふ「いぢめる側の論理」が堂々と開陳される。

人間社會はひたすら冷酷なものだが、さう云ふ傾向が「正しい」と看做された時、「である」論は「あるべき」論に轉化し、冷酷である現實が「冷酷であるべきである現實」にすり替へられて、擧句、「いぢめる側」が自身の冷酷さを正當化する論理に採用する。そして、いぢめる側は常に自身も持つ缺陷を無視してひたすらいぢめられる側の缺陷を突つき續ける。それを許す地盤が日本には大衆の次元で「ある」(海外にもあるが、それをいちいち問題にして日本の問題を相對化し矮小化すべき理由はない)。殊に日本人には陰濕な面がある。
プロフ問題にしても、「人間關係」で處理すべき領域だとの認識から嫌がらせや侮辱は起こり、しかし、一方で、グローバルなウェブの性質を利用して嫌がらせや侮辱の效果をいぢめる側・攻撃する側は期待する。これらのちぐはぐな樣相は、要は、自分に都合が良ければ何でも採用する、と云ふ惡人の智慧に基くものだが、「惡意に基く行動」と云ふ事實を我々は屡々閑却する。

殊にいぢめる側の人間に極めて強く存在する傾向であるが、「何を言つた」と云ふ内容・事實だけが彼等にとつては「重要」である。その意圖なり何なりは、いぢめる側は、いぢめられる側にとつて不利になるやうに、惡意に基いて解釋するし、全て惡意で事實をセレクトする。
全て惡意に基いてゐれば、その惡意は見え見えであるのだが、しかし「事實」と云ふ事をひたすら楯にとつて、いぢめる側は自己を正當化する。
斯うした事がウェブで汎く行はれてゐるのだが、その結果、非道い事態が屡々出來する。プロフ問題はその一端でしかない。

我々は、「事實」とか「論理」とかを、形式的に捉へ勝ちで、それらを通して何を言はんとしてゐるか、と云ふ人間的な側面を見過ごしがちだ。惡意の人間はそれを惡用する。が、そのやうな惡用を許してはならない。我々は、批判と侮辱とを混同する惡人の「相對主義」に欺されてはならない。
プロフ問題で、さうした惡人の混同は許されず、惡人は處罰されてゐる。これは、現實に死人が出たからで、刑事事件となつたからだ。警察は刑事事件の場合にのみ動く。しかし、刑事の問題になつてからでは最早事態は遲いのであつて、大事なのは未然に犯罪を防ぐ事だ。今、積極的に犯罪的な行爲に荷擔してゐる人が、例へばこの「闇黒日記」の閲覽者の中にも存在する。しかし、さうした問題を起す事を、彼らは「正義」の名の下に正當化する。それを見過ごす傾向が今のウェブには「ある」とすら言ふ事が出來る。
今のウェブの仕組の下で――現實もさうだけれども――犯罪を見過ごして自分は安全地帶に退いてゐることが「生活の智慧」として定着してしまつてゐる。が、それでは治安は惡化する一方であり、モラルは低下する一方となる。政府なり爲政者なりによる規制やら何やらが強化される事を主張する人が増え、また實際にさうした動きがある事は、反面、大衆の側で問題が生じてゐる事實を示す。それで構はないとする人も結構ゐるやうだが、それで人は幸福になるのか。刹那主義的に「今、俺が樂しければ良い」とする考へ方、それは現代的な餘りに現代的な考へ方だが、ウェブでは全面的かつ強力に主張されてゐる。その結果が何も言へないウェブになり、何も言へない世の中になるのでは、我々はひたすら不幸に向つて突つ走つてゐると言ふしかないのではないか。
負け犬の俺は勝ち組の連中を呪詛するしかないが、どうせ世の中は惡い方向に進み、誰もが嫌な氣持ちで生きる社會はじきに到來するのである。