闇黒日記?

にゃもち大いに語る

粘着アンチ・喜六郎の異常な「道徳観」とやら


無敵の喜六郎先生が「観念論の応酬なんぞに興味はない」と言放ち、實に具體的に「道徳観」を語つて呉れてゐる。
今回は、私が「道徳」について如何に考えているか書いてみようと思う。
さあ、喜六郎先生の「考え」とやらを見てみよう。
日本人には法律だけでなく、さらに守らなければならないものがある。
それが道徳である。
道徳とは不文律であり、法律と比べて分かり難いものだけれど、日本人の精神に宿っているものだと考える。
なるほど……と言ひたいが、なんぢやそりや。「精神に宿っているもの」つて、あんた何時の時代の人間だよ、何その精神論とか言ひたくなるが……。
たとえば東京の神保町に田村書店という古書店があり、そこでたまに無料箱コーナーが設置されている。
そこで一部の恥知らずが大量に無料の古本をゲット(笑)していくことはあるものの、多くの客はそんなことはしない。
無料箱の古本を大量にゲット(笑)したところで、法に違反するわけではない。
良識的な客たちは古本を大量にゲット(笑)する行いは、たとえ法に反していなくとも道徳に反する行いであるということを無意識のうちに悟っているからである。
法に触れなければ何をしても良い、だから田村書店の無料箱から大量に古本をゲット(笑)しても「許される」といった態度は、非道徳的行為であると言えるのである。
あーあ笑ひ。「具體的」と言つてゐるが、何の事はない、俺の惡口だ。俺の惡口を書くだけの爲に、大袈裟にも、或は烏滸がましくも、「道徳觀」などと言つて見せただけである。しかし、この發想は何とも凄まじい。
喜六郎の愉快な取卷きがこんなコメントを書込んでゐる。
投稿者:名無し
2008/11/30 23:39
無料箱漁りを嬉々と日記で公表する人物には「恥を知れ」という言葉を捧げたい。
何が恥なのだらう。さつぱりわからない。

何も知らない讀者の人は、この喜六郎の文章を讀んで、古本屋の「棚」か何かに並んでゐる商品が、本來商品であるにもかかはらず、無料で持つて行きたい人がゐたら見逃すけれども、實はちやんと値段が附いてゐて、その商品であるものは買はないと持つて行つてはならないものなのだらう、と推測するかも知れない――等と書いてみたが、馬鹿馬鹿しい話だ。
田村書店は「一流」の古本だけを扱ふ本屋で、大した事のない本、ミステリとかラノベとか(笑ひ)、句集や詩集の自費出版のやうなもの、旅行ガイド――に限らず、「商品にならないもの」は全部「無料箱」に投げ込んで、その邊を歩く人に持つて行つてもらはうとする。

ところが、何しろ田村が「一流」と言はれるだけあつて、出て來る「商品にならないもの」の質が異樣に高い。筑摩や河出が昔出してゐた世界文學全集の類は當り前。洋書・洋雜誌、寫眞集、美術雜誌、文庫、新書。エトセトラエトセトラ。ボーヴォワール邊は何處の本屋でも店頭ワゴンの常連だが、ここでは無料箱に當り前に出る。その邊の古本屋でワゴンセールに出るものがここでは無料なのだと言つて良い。
「商品にならない」のは、表紙が破れたもの、ないものも含まれる。
けれども、何れにしても、何うしやうもない駄本とともに、結構まともな、まれに結構な珍品が、この無料箱には平然と出る。
神保町を歩いてゐる人間にとつて、だから田村の無料箱は、田村のワゴンセールと並んで、神保町の名物だ。
言はゞ田村にとつては「屑本」を、捨てるに忍びないから、御客さんにただで配つてゐるのであつて、それを「大量にゲット」しても、何の問題もない許りか――實は岩波新書が山になつてゐた時、小僧さんに一度「本當にいいのか」と訊ねたのだが、「どうぞ持つて行つて下さい」と當り前のやうに應へられて以來當り前のやうに貰つて行く事にしてゐるに過ぎない。捨てる本をただ捨てるのではBOOK OFF並だし、貰つてもらへれば「屑」みたいな本でも必要な人に有效に「利用」される訣だ。

と言ふか、案外知られてゐないのだけれども、何うしやうもない、賣れない本、商品にならない本は、古本屋もゴミとして捨ててしまはざるを得ない。田村に限らず、神保町の本屋は何處も狹い土地で商賣をしてゐて、そんなに安い本を澤山並べておけはしない。田村の場合は、店の中には相當高級な本を、相當いい値段で並べて、それで商賣にしてゐる。駄本・屑本の類は、普通ならワゴンセールで處分するのだが、どんどん入荷する神保町の店では、ワゴンに積んでも賣れる前に溜まつてしまふ。それでは困るので、捨てるしかないが、捨てるのも忍びないと云ふ事らしい、それで無料箱に突込んで、欲しい人に差上げる、と云ふ事にしてゐる訣だ。

そんな事も知らないで、「商品をただで持つて行く惡い奴」みたいな極附けをして、好い氣になつて他人に侮辱を加へる――無知の力とは恐ろしいものだが、斯うなると知的怠惰は道徳的怠惰である、と云ふ、喜六郎にも御馴染みの文句で以て喜六郎を非難したくなる。否、實際、さうなのだ、喜六郎は無知であるがゆゑに、「自分の知つてゐる範圍」で物事を見て、淺薄なレヴェルで判斷し、居丈高に「敵」を罵り、嘲つて、好い氣になる。
しかしまあ「良識的な客たちは古本を大量にゲット(笑)する行いは、たとえ法に反していなくとも道徳に反する行いであるということを無意識のうちに悟っているからである。」とか、最う根據も何もない、ただ無知を良い事に、好き勝手を言つてゐるだけだ。無知は自分が無知だと氣附く事はない。無知が自分の知識の量を判斷する材料はない。喜六郎は自分が無知だと氣附かない。だからこそ「みんなそう思っている筈」と言つて、勝手な思ひ込みを一般化して、その自分の思ひ込みに反する例を見附けては――いやいや、今の場合、喜六郎は、先に「野嵜は惡い事をする人間である」と云ふ結論を出してしまつてゐる。その「豫め出しておいた結論」に結び附ける爲に、適當に話を作つて、もつともらしく自説を權威づける。喜六郎の文體は常にもつたいぶつたもので、大袈裟――喜六郎は自分が如何にも權威者の發言であるかのやうにものを言ふのだ。だが、その根據は、自分の勝手な思ひ込みにすぎない――その自分の思ひ込みが「日本人の精神に宿っているものだ」と言ふのだから、喜六郎の思ひ上りにも甚だしいものがある。

喜六郎の「道徳觀」とやらだが、「俺が惡いと思つたものは、みんな惡いと思ふものなのだ」と云ふやうな程度のものでしかない。「常識だろ常識」の類だ。しかし、常識がをかしい人間が「常識」と言つたところで説得力はないのでないか。
喜六郎は「粘着は正當な行爲である」等と云ふ「常識」を持つてゐる。こんな人間のその他の「常識」が、まともな人間の常識と一致するとしたら、世の中眞つ暗である。喜六郎は「は? 当たり前だろ。俺の常識は常識なんだから。だから常識って言うんだろ」とか言ひさうだが――その邊の人は粘着行爲など普通しない。


何と言ふか、喜六郎のやうな「粘着は正しい」とか言ふ人間は、世の中の常識とまるで正反對の「常識」を持つてゐて、しかしさう云ふ人間ですら自分の正義を他人に押附けようとするものだ。だからこそ粘着はしつこく、しかし一般社會には受容れられないのだが――さう云ふストーカーじみた人間が昨今、あちこちで犯罪を起してゐる。
法は「最低の道徳」と言つて、道徳ではなく、實は社會の秩序を維持する爲のシステムであるのだが、社會の秩序を維持する爲にはストーカーじみた人間、或はストーカーである人間について、今後は何らかの對策をとつて行く必要が檢討されるやうになるかも知れない。大體社會秩序を維持する爲には、市民とか國民とかが生延びる事をそれなりに保障する制度として法が定められる。その程度で十分だつたのが從來の社會であつたのだが、それは一往、法意識を超えた道徳的な意識があつて、その意識が人の反秩序的な行爲をも抑制してゐたから何とかなつたのだ。
さうした自己を抑制するものが、現在の社會に生きる人間から失はれつゝあると言はれてゐる。それが本當かどうかは知らない。宗教心でも公共心でも、取敢ず「ある」のが從來の社會的人間だつた。それがない人間――喜六郎のやうな人間が、現在の社會には増えてゐる――と言ふより目立つてゐる。目立つたところから適當に潰して行かうと云ふ場當り的な態度をとるのが日本人の特徴だ。それは良かれ惡しかれだが、今、右傾化する社會に於て、失はれた意識への代償的なものとして、法による秩序の維持が體制的に強化される可能性は「ある」。「ある」けれども、それ自體はただのシステム作りに過ぎない。そんな事をしたところで、喜六郎のやうな惡質な人間が、次の日に突然聖者のやうな精神を持ち始めるなんて事はあり得ない。人間は、システムが何うなつても、それで精神的に即座に何うなる、と云つた事はない。
ただ、さうなると、世の中、非常にシステム的・機械的で、非人間的な状態となり、生き生きとした生はますます見えなくなつて行くだらうと、その程度の事は言へる。
獨裁やら何やらの「惡い政治體制」ではなく、もつと非道い、人間の精神的な死が齎す、文明の死とでも言ふべきものが、將來に現れる事は十分「ある」。その邊の事は、福田恆存が「總統いまだ死せず」などで豫言した事だ。その悲慘な状況は、以前は悲劇的なものと考へられてゐて、それが西歐に數多く現はれた「反近代の思想」に示されてゐたのだが、福田さんは寧ろ喜劇的なものとなるだらうと想像した。實際、喜六郎のふざけた「ブログ」を見れば、現代文明の終りは何とも馬鹿馬鹿しい・下らない形態を取らざるを得ないであらう事が容易に推測出來る。