闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「文章添削」を叩け、と云ふ「アンチ松原信者教」の教義

今年になつて、喜六郎の「ブログ」を見てゐなかつた所爲で(だつてあの「ブログ」、氣持ち惡いんだもの、喜六郎が粘着だつたのが惡いんだよ)、こつちが一方的に喜六郎に粘着してゐるやうな形になつてゐたけれども、やつぱり喜六郎も人の子らしく、粘着されると嫌で嫌でたまらなかつたらしくて、いよいよ業を煮やして反撃し始めた。が、そこで出てきた言葉がまたぞろ「文章添削」の惡口。


喜六郎は何年「文章添削」攻撃の一本槍でやつてゐるんだよ。


アンチと云ふ名の信者は、一つの教義に拘るものであつて、毎度毎度同じネタで攻撃を仕掛けてくる。斯うした「一つのネタ」に拘るアンチは、何を言はれてもその「一つのネタ」の事許りを言ふのであつて、反論を許さない。
だから俺は反論しない。俺はちやんと對話する積りのある人間とのみ對話するのであつて、ドグマティックな態度をとつてゐて對話する積りのないアンチとは對話しない――と言ふより、アンチの側が對話を拒絶してゐるのだから對話が成立する訣がない。

喜六郎は「文章添削」と言つて俺をまた(何囘目だらう)攻撃してきた。この時點で喜六郎は俺の反論を許さない積りである事が明かだ。
俺が反論しないのではない――反論を受附けない積りでゐる喜六郎が惡い。反論させないやうにしておいて「反論して來ない」とアンチの喜六郎は宣傳する積りでゐる――その魂膽が讀めてゐるから俺は嫌だなあと、今囘も思ふ訣である。


112も、「契約」と云ふ言葉に執拗に拘るだけだし、その「拘る」時點で、俺と對話する積りがなく、ただひたすら俺をいたぶるだけの目的で書込んで來てゐる事は明かだ。
さう云ふ112の尻馬に乘つて喜六郎は俺を非難してきたのだが、その次の記事で麻生叩きが「時流に乘つて」のものだと言つてゐる。最う目茶苦茶だ。

なあ讀者諸子よ――既にこんな非道い状態になつてゐる「ブログ」で讀者がゐるのかどうかは知らないが――連中が「契約」と云ふ言葉に拘らなければならない理由は「ある」と思ふか。俺は「ない」と思つてゐる。
喜六郎にしても112にしても「つつけさうなところをつついて悔しがらせる」のが目的でつついてゐるに過ぎない。連中、「憲法は國が國民に對して統治のやり方を約束したものである」と云ふ俺の指摘を、否定したいと本氣で思つてゐる訣ではない。ただ言葉を俺が曖昧に使つてゐる「と云ふ事にする」爲に――さうして俺が馬鹿であると見せかけるだけの爲に、連中は執拗に「契約」と云ふ語に拘つて見せてゐるに過ぎない。
そして俺がいくら釋明し、いくら説明したところで、彼等は、112にしても喜六郎にしても、受容れようとはしない。彼等は俺と對話する積りがない。俺の事を人間として認めてゐないからだ。彼等は俺が「馬鹿」だと云ふのを事前に極附けてゐて、「同じ人間」と看做さず、「人間以下の馬鹿」と看做して、一方的に侮蔑し嘲笑する態度をとつてゐる。
だからこそ俺は連中がアンチである事實を指摘し、「アンチ相手には釋明しても意味がない」事實を指摘する。アンチがアンチである以上、アンチと云ふ事實を指摘して批判を加へるのは已むを得ない事だ。事實を指摘して批判するのは正しい方法だ。

彼等は言葉尻を捉へるだけで俺の主張の本質を檢討しようとしない。ならばこちらもさうした連中の態度をアンチと云ふ名の狂信者の態度として典型化し、人間の一つのパターンとして分析して見せるしかない。