竹内好譯『魯迅評論集』岩波新書
林語堂が「フェアプレイ」が今の中國には必要だと書いた時、魯迅が反對して「水に落ちた犬、大いに打つべし」と書いた。さもありなん。
時代は共産主義以前の中國。魯迅は革命志向の文人で、だから竹内好なんかが岩波新書で譯してゐるわけだが、「今はまだフェアプレイの時代ではない」等と言つてゐるものの、「今」が今でなくなつた未來にはフェアプレイを認めるかと言へば、到底そんな事はあり得ない。
毛澤東の戰術論なんかもさうだが(これも岩波新書で飜譯あり)、兔に角「敵に勝つ」のが最優先の時代――と言ふより、さう云ふイデオロギーの論者の文章なのであつて、ほぼ當座の敵を叩き潰すのを目標としてゐる事に注意しなければならない。
文章そのものがターゲットを叩き潰す目的で書かれてゐるのと同時に、特定のターゲットを叩き潰す目的でも書かれてゐる、それだけの二重性があるに過ぎない。深みもクソもなく、つまらん文章だ。
※「「フェアプレイ」は見合わすべし」(1925年)
渋谷飛龍閣は「連れ込み旅館」に非ず
「性社会・文化史」を扱ふブログの記事。渋谷パルコ解体に際して、渋谷の町の変遷について述べてゐる。興味深い内容だが記述に誤があるので訂正されたい。
記事には以下のやうにある。
「山手教会」の向かい側には「渋谷ホテル」が、その少し坂下の路地の奥には「飛龍閣」があった。
どちらも、1950年代から営業している「連れ込み旅館」だ。
これは誤。飛龍閣はちやんとした旅館。連れ込み旅館ではない。
早稲田学報1962年4月号。早稲田学報は早稲田大学の校友会の雑誌。
表四に飛龍閣の広告が載つてゐる。
「政府登録・国際観光旅館」「校友歓迎一割引」との事。
早稲田学報1964年5月号表四にも広告あり。
「ご新婚に、ご家族連れに、観光に、御商用に――校友歓迎室料割引。三、四十名様に恰好の広間が御座います。どうぞ御会議、御会食等にも御利用下さい。」とある。連れ込み旅館なんて家族連れで行くわけがないし、ビジネスマンが会議や会食に利用したりするわけもない。
当方も早稲田の校友であるので、同じ校友の名誉(?)のためにも一往。
國際秩序と日本の改憲
安倍政權が改憲を目指してゐる事に對し、日本共産党やその他の左翼、或は「平和勢力」が反對の意見を表明してゐる。「安倍総理は日本を戦争ができる国にしようとしている」と云ふのだ。森友や加計の問題が絡んで、從來、自民党・安倍政權を支持してゐた多くの無黨派の人が自民党離れを起こしてゐるとの事。左翼のイメージ戰略がここにきて效力を發揮し始めてゐる。左翼諸氏にしてみれば滿足な事だらう。
だが、日本が「戦争ができる国」になる事の何が惡いのか。
私には、日本が「戦争ができる国」になるのはたいへん好ましい事のやうに思はれる。なぜなら、日本が「戦争ができる」やうになれば、日本は國際秩序の維持に貢獻できるやうになるからである。
改めて指摘するまでもなく、現代の地球に住む人類は、一つの國家の下に生きてゐるのではなく、多數の國家を作つて、國際社會を形成して、生活してゐる。國内の社會の秩序維持のためには警察と云ふ機關が存在し、法秩序を國民に強制してゐる。一方、國際社會の秩序維持のためには、統一された法秩序強制の機關は存在しない。
然るに、警察力によつて國民に法秩序を強制する國内法に對して、國際社會に參加する各國に法秩序を強制する國際法と云ふものが「ある」。ケルゼンによれば、法と云ふものは、違法行爲に對して制裁を課す、と云ふ事實を伴ふものである。
※ケルゼン『法と国家』(東京大学出版会)
ケルゼンは『法と国家』で國際法があり得るかと云ふ問題を論じて、國際法侵害の違法行爲に對する制裁のありやうについて檢討し、現實的に見て、戰爭に對しては戰爭で對抗するしかない、と指摘してゐる。「違法な戰爭」に對する「正しい戰爭」のありやなしやについては昔から議論になつてをり、現代の日本では「正しい戰爭なんてものは存在しない」と云ふのが社會的に「定説」化してゐるが、ケルゼンは結局、現代の國際社會が國際法の維持・實現の道具としての「正しい戰爭=正戰」を「認めてゐる」と述べてゐる。
今の時代、改めてケルゼンの議論は讀まれて良いものと思はれるので、閲覽された方々には同書を探し出してどうにかして讀んでいただきたいところだが、現在の國聯(國際聯合/UN)もケルゼンの言ふやうな「正戰」の考へ方を前提に安全保障體制を築いてゐるのであり、當然、アメリカもさうした考へ方に從つて國際社會の秩序維持のために動いてゐる。
中國は現在、南シナ海の大睦側から南方のはるか海上までの實效支配を目論み、「九段線」と稱するラインを設定してゐる。仲裁裁判所が「九段線」は無效だとの判決を下してゐるが、中國はその判決そのものを「違法かつ無效」と極附け、相變らず實效支配を續けてゐる。「国連海洋法条約は仲裁判決を強制執行する仕組みがない」(毎日新聞 2017年7月12日 https://mainichi.jp/articles/20170712/ddm/007/030/158000c 同志社大の坂元茂樹教授の指摘)
法の支配が國内法のみならず國際法にもあり得るか、と云ふのがケルゼンの論文でとりあげられた問題で、ケルゼンははつきり「正戦」を認めてゐるが、しかし今囘、國際社會の秩序を破つたのは、大國である中華人民共和國であつた。小國・力の弱い國が國際法の秩序を破つたのであれば、大國・多數の國が力で制裁を加へる事は容易である。が、中國と云ふ大きな國が、軍事力で、國際秩序を破つたのである。これに對してどのやうに制裁を課すべきかが問題になるが、どうにもやりやうがない。國際法の法秩序は破られたわけだ。
もちろん、斯うした事態――即ち、大國が實力を行使して國際法の秩序を破る事態――は想定されてをり、だからこそ國際法は法ではないと云ふ主張が強い説得力を持つてきた。
が、さうした「限界のある國際法」の下で、國際社會の秩序を維持していくには、やはり軍事力を用ゐる以外にない、と云ふのが現實なのである。現在は中國が軍事力で以て國際法破りをしてゐるが、これをアメリカは齒噛みしながら眺めてゐるのであり、齒噛みしてゐると言ふのは結局、苛立つてゐるのであつて、何かのきつかけがあればアメリカは中國相手でも「やる」のである。
さう云ふアメリカだからこそ、國際社會の秩序維持に、日本も力を貸せ、と言つてゐるのであつて、それゆゑ日本人が「憲法第九條」に固執して、平和主義の楯の後ろに隱れてゐる事は、齒痒い事でしかない。アメリカ人は「正戰」を信じてゐる國民であり、日本相手の戰爭も「正戰」であつたから戰つたのであつた。今その「正戰」で破つた相手國の日本が「正戰」の概念を否定してゐるのは、アメリカ人にとつては、憎むべき事であるとすら言つて良い。日本人平和主義者は無邪氣だから戰爭一般を否定してゐる「だけ」だと思つてゐるが、知らずしてアメリカ人を挑發してゐるのである。
自民党は昔から親米の立場をとり、アメリカべつたりの政策をとつてきた。改憲もまたアメリカからの要求に應へるものである。安倍政權は、私の見立てでは、さうしたアメリカ側からの要求にとことん應へる事を目指してをり、それによつて日本をアメリカから信頼される國にしようとしてゐる。
左翼が斯うした安倍政權のありやうに危機感を覺えてゐるのは、左翼がアメリカを「軍事大国」と見、アメリカを敵と看做してゐるからだ。反米的な左翼は、反米的な右翼とも結び附く。日本の社會の中に久しく存在する反米意識を背景に、安倍政權を「危險なファシスト」と極附け、レッテルを貼る戰術は、しかしそれだけでは效果を發揮しなかつた。そのためにマスコミやその他の活動家は連携して、森友やら加計やらの「スキャンダル」をでつち上げて、安倍總理下ろしの策動を進めたわけだ。
だが、たかだか學校程度の問題で以て、安倍政權を潰させるわけには行かない。日本を國際社會の秩序維持のために貢獻できる國にしようとしてゐる安倍政權を、さうさう安易に潰させてしまつては行けない。これで安倍政權が潰れて改憲がまた先延ばしされてしまつたら、それこそ日本國民の恥晒しである。
だが、日本が「戦争ができる国」になる事の何が惡いのか。
私には、日本が「戦争ができる国」になるのはたいへん好ましい事のやうに思はれる。なぜなら、日本が「戦争ができる」やうになれば、日本は國際秩序の維持に貢獻できるやうになるからである。
改めて指摘するまでもなく、現代の地球に住む人類は、一つの國家の下に生きてゐるのではなく、多數の國家を作つて、國際社會を形成して、生活してゐる。國内の社會の秩序維持のためには警察と云ふ機關が存在し、法秩序を國民に強制してゐる。一方、國際社會の秩序維持のためには、統一された法秩序強制の機關は存在しない。
然るに、警察力によつて國民に法秩序を強制する國内法に對して、國際社會に參加する各國に法秩序を強制する國際法と云ふものが「ある」。ケルゼンによれば、法と云ふものは、違法行爲に對して制裁を課す、と云ふ事實を伴ふものである。
※ケルゼン『法と国家』(東京大学出版会)
ケルゼンは『法と国家』で國際法があり得るかと云ふ問題を論じて、國際法侵害の違法行爲に對する制裁のありやうについて檢討し、現實的に見て、戰爭に對しては戰爭で對抗するしかない、と指摘してゐる。「違法な戰爭」に對する「正しい戰爭」のありやなしやについては昔から議論になつてをり、現代の日本では「正しい戰爭なんてものは存在しない」と云ふのが社會的に「定説」化してゐるが、ケルゼンは結局、現代の國際社會が國際法の維持・實現の道具としての「正しい戰爭=正戰」を「認めてゐる」と述べてゐる。
今の時代、改めてケルゼンの議論は讀まれて良いものと思はれるので、閲覽された方々には同書を探し出してどうにかして讀んでいただきたいところだが、現在の國聯(國際聯合/UN)もケルゼンの言ふやうな「正戰」の考へ方を前提に安全保障體制を築いてゐるのであり、當然、アメリカもさうした考へ方に從つて國際社會の秩序維持のために動いてゐる。
中國は現在、南シナ海の大睦側から南方のはるか海上までの實效支配を目論み、「九段線」と稱するラインを設定してゐる。仲裁裁判所が「九段線」は無效だとの判決を下してゐるが、中國はその判決そのものを「違法かつ無效」と極附け、相變らず實效支配を續けてゐる。「国連海洋法条約は仲裁判決を強制執行する仕組みがない」(毎日新聞 2017年7月12日 https://mainichi.jp/articles/20170712/ddm/007/030/158000c 同志社大の坂元茂樹教授の指摘)
法の支配が國内法のみならず國際法にもあり得るか、と云ふのがケルゼンの論文でとりあげられた問題で、ケルゼンははつきり「正戦」を認めてゐるが、しかし今囘、國際社會の秩序を破つたのは、大國である中華人民共和國であつた。小國・力の弱い國が國際法の秩序を破つたのであれば、大國・多數の國が力で制裁を加へる事は容易である。が、中國と云ふ大きな國が、軍事力で、國際秩序を破つたのである。これに對してどのやうに制裁を課すべきかが問題になるが、どうにもやりやうがない。國際法の法秩序は破られたわけだ。
もちろん、斯うした事態――即ち、大國が實力を行使して國際法の秩序を破る事態――は想定されてをり、だからこそ國際法は法ではないと云ふ主張が強い説得力を持つてきた。
が、さうした「限界のある國際法」の下で、國際社會の秩序を維持していくには、やはり軍事力を用ゐる以外にない、と云ふのが現實なのである。現在は中國が軍事力で以て國際法破りをしてゐるが、これをアメリカは齒噛みしながら眺めてゐるのであり、齒噛みしてゐると言ふのは結局、苛立つてゐるのであつて、何かのきつかけがあればアメリカは中國相手でも「やる」のである。
さう云ふアメリカだからこそ、國際社會の秩序維持に、日本も力を貸せ、と言つてゐるのであつて、それゆゑ日本人が「憲法第九條」に固執して、平和主義の楯の後ろに隱れてゐる事は、齒痒い事でしかない。アメリカ人は「正戰」を信じてゐる國民であり、日本相手の戰爭も「正戰」であつたから戰つたのであつた。今その「正戰」で破つた相手國の日本が「正戰」の概念を否定してゐるのは、アメリカ人にとつては、憎むべき事であるとすら言つて良い。日本人平和主義者は無邪氣だから戰爭一般を否定してゐる「だけ」だと思つてゐるが、知らずしてアメリカ人を挑發してゐるのである。
自民党は昔から親米の立場をとり、アメリカべつたりの政策をとつてきた。改憲もまたアメリカからの要求に應へるものである。安倍政權は、私の見立てでは、さうしたアメリカ側からの要求にとことん應へる事を目指してをり、それによつて日本をアメリカから信頼される國にしようとしてゐる。
左翼が斯うした安倍政權のありやうに危機感を覺えてゐるのは、左翼がアメリカを「軍事大国」と見、アメリカを敵と看做してゐるからだ。反米的な左翼は、反米的な右翼とも結び附く。日本の社會の中に久しく存在する反米意識を背景に、安倍政權を「危險なファシスト」と極附け、レッテルを貼る戰術は、しかしそれだけでは效果を發揮しなかつた。そのためにマスコミやその他の活動家は連携して、森友やら加計やらの「スキャンダル」をでつち上げて、安倍總理下ろしの策動を進めたわけだ。
だが、たかだか學校程度の問題で以て、安倍政權を潰させるわけには行かない。日本を國際社會の秩序維持のために貢獻できる國にしようとしてゐる安倍政權を、さうさう安易に潰させてしまつては行けない。これで安倍政權が潰れて改憲がまた先延ばしされてしまつたら、それこそ日本國民の恥晒しである。
歴史的かなづかひは「正しい」か
http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3-rakusho/archives/54725603.html
>歴史的仮名遣いとは、「正しい」日本語表記なのではなく、奈良平安時代の典型的な日本語であるという議論には説得力があると思われる。契沖も本居宣長も日記や手紙には歴史的仮名遣いなど正しく運用していないということである。歴史的仮名遣いとは、あくまでも日本の古典に向かい合う姿勢なのである。
歴史的かなづかひはそれ自體として正しい表記なのではない――この主張、今の世ではたいへんな説得力を持つらしいのである。
>もちろん、言語には、品格、格調、審美性は大切である。毒蝮の師匠みたいに、「きたないばばあ」とか「頭の悪そうなガキ」などという言葉を連発することは下品なことであり、本来は控えるべきなのである。こういうのは、談志師匠の悪い影響と思われる。
なるほど――
「正しい」と云ふ事と「美しい」「品格がある」と云ふ事とが、なぜか日本人の頭の中では直結してゐる。奇妙な話だが、これらを日本人は絶對に疑ふ事が出來ない。日本人ならではの思考囘路が、日本人の頭の中には出來てしまつてゐる。
我々は近代化以來、物事を「正しく」認識しようとつとめてきた。その結果、歴史的かなづかひはそれ自體として【正しい」ものではない、と云ふ認識に至つた。慶賀の至りである。にもかかはらず、依然として我々の頭の中で「正しい」事と「美しい」事とがイコールで結ばれてゐる。
日本人のものの見方によれば、美しい「から」正しいのであり、格調高い「から」正しいのである。
俺は毒蝮三太夫のファンでも立川談志の信者でもないから、彼らを擁護する義理もなく、またその必要もない。が、彼らが汚い言葉を使つてゐるから「正しくない」と非難され、「汚い言葉」の類が「正しくない言葉」である、と極附けられる樣を見れば、いささか抗議はしたいと思ふ。さう云ふ觀點から歴史的かなづかひが「正しくない」事を論じられても、困るのである。
我々は、歴史的かなづかひがそれ自體として「正しい」ものでない事を「知る」のは良い。けれども、それがあまりにも他人事のやうに語られるべきではないのである。我々は、自分の意志で、歴史的かなづかひを「正しい」と認めねばならない。我々の意志の問題である。「現代仮名遣」のやうな出たら目なでつち上げかなづかいを「正しい」と認めるのと、歴史的かなづかひのやうな素性も正しい・構造も見た目も美しいものを「正しい」と認めるのと、どちらが我々の精神の美しさを表すものか。我々は、この邊の事をよくよく反省しなければならないと思ふ。
我々は、我々が「正しい」と「認める」ものによつて、我々自身の覺悟を示すのだ、と云ふ事を、よくよく意識してをらねばならないのである。
>歴史的仮名遣いとは、「正しい」日本語表記なのではなく、奈良平安時代の典型的な日本語であるという議論には説得力があると思われる。契沖も本居宣長も日記や手紙には歴史的仮名遣いなど正しく運用していないということである。歴史的仮名遣いとは、あくまでも日本の古典に向かい合う姿勢なのである。
歴史的かなづかひはそれ自體として正しい表記なのではない――この主張、今の世ではたいへんな説得力を持つらしいのである。
>もちろん、言語には、品格、格調、審美性は大切である。毒蝮の師匠みたいに、「きたないばばあ」とか「頭の悪そうなガキ」などという言葉を連発することは下品なことであり、本来は控えるべきなのである。こういうのは、談志師匠の悪い影響と思われる。
なるほど――
「正しい」と云ふ事と「美しい」「品格がある」と云ふ事とが、なぜか日本人の頭の中では直結してゐる。奇妙な話だが、これらを日本人は絶對に疑ふ事が出來ない。日本人ならではの思考囘路が、日本人の頭の中には出來てしまつてゐる。
我々は近代化以來、物事を「正しく」認識しようとつとめてきた。その結果、歴史的かなづかひはそれ自體として【正しい」ものではない、と云ふ認識に至つた。慶賀の至りである。にもかかはらず、依然として我々の頭の中で「正しい」事と「美しい」事とがイコールで結ばれてゐる。
日本人のものの見方によれば、美しい「から」正しいのであり、格調高い「から」正しいのである。
俺は毒蝮三太夫のファンでも立川談志の信者でもないから、彼らを擁護する義理もなく、またその必要もない。が、彼らが汚い言葉を使つてゐるから「正しくない」と非難され、「汚い言葉」の類が「正しくない言葉」である、と極附けられる樣を見れば、いささか抗議はしたいと思ふ。さう云ふ觀點から歴史的かなづかひが「正しくない」事を論じられても、困るのである。
我々は、歴史的かなづかひがそれ自體として「正しい」ものでない事を「知る」のは良い。けれども、それがあまりにも他人事のやうに語られるべきではないのである。我々は、自分の意志で、歴史的かなづかひを「正しい」と認めねばならない。我々の意志の問題である。「現代仮名遣」のやうな出たら目なでつち上げかなづかいを「正しい」と認めるのと、歴史的かなづかひのやうな素性も正しい・構造も見た目も美しいものを「正しい」と認めるのと、どちらが我々の精神の美しさを表すものか。我々は、この邊の事をよくよく反省しなければならないと思ふ。
我々は、我々が「正しい」と「認める」ものによつて、我々自身の覺悟を示すのだ、と云ふ事を、よくよく意識してをらねばならないのである。
野嵜のサイトの移轉のお知らせ
從來ウェブサイトを置いてゐたJ:COMがウェブホスティングサービスを終了したので、サイトを移轉しました。
リンクをはつて下さつてゐる皆さんへ。ご面倒をおかけしますが、URLの修正を御願ひします。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/
※Yahoo!のこのブログはこのまゝ續きます。
リンクをはつて下さつてゐる皆さんへ。ご面倒をおかけしますが、URLの修正を御願ひします。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/
※Yahoo!のこのブログはこのまゝ續きます。
娘に宛てた谷崎潤一郎の書簡發見のニュース
谷崎潤一郎のニュースがこのところ續いてゐる……
少々ショックだつたのは「立つち」なる言葉が使はれてゐた事。
「もう立つちやあんよが出来る時分と楽しみに致し居(お)り候」(44年11月16日)
最近の言葉かと思つてゐたが結構古くからあるらしい。
谷崎潤一郎の創作ノート
谷崎潤一郎が作つてゐた「創作ノート」の、今まで存在が知られてゐなかつた複寫が見附かつた、と云ふニュース。
本物は戰爭で燒けてしまつたが、寫眞に撮られた複製が殘つてゐて、長らく眠つてゐたさうな。
谷崎が個人的に作つた複寫らしい。
印畫紙が殘つてゐた、と云ふのだが、フィルムでは殘つてゐない、つて事だらう。
谷崎が個人的に作つた複寫らしい。
印畫紙が殘つてゐた、と云ふのだが、フィルムでは殘つてゐない、つて事だらう。
以下は谷崎とは別の話――
出版社では昔、紙燒きの原稿(寫眞)を製版するのに、一度、撮影してフィルムにしてゐた事があつて、元の寫眞が失はれてゐても、さう云ふフィルムが資料室などに保存されてゐる事がある。
昭和40年代くらゐの、モノクロで寫眞をいつぱい載せてゐたやうな本なら、まとまつてネガが見附かる可能性がある。出版社は意外と原稿を粗末に扱ひがちだから、オリジナルの寫眞すらも破毀してしまつてゐる場合があるが、ネガが殘つてゐれば貴重な寫眞が發掘出來るかも知れない(クオリティはオリジナルよりも落ちる)。
昭和40年代くらゐの、モノクロで寫眞をいつぱい載せてゐたやうな本なら、まとまつてネガが見附かる可能性がある。出版社は意外と原稿を粗末に扱ひがちだから、オリジナルの寫眞すらも破毀してしまつてゐる場合があるが、ネガが殘つてゐれば貴重な寫眞が發掘出來るかも知れない(クオリティはオリジナルよりも落ちる)。
一方、オリジナルのフィルムは失はれてゐるが、紙燒きが殘つてゐる、なんて事もある。
調べてみるとベタ燒きにしか殘つてゐない寫眞、なんてものもたまにあつて哀しくなる。
谷崎のノートの複製だが、ベタ燒きの類なのかな。
海外の寫眞家のおうちが洪水に遭つて、生涯に撮つたフィルムが全部やられてしまつた――けれども、日本の出版社が借りたまま戻さなかつた紙燒きが大量に殘つてゐて、出版社が久々に聯絡したら寫眞家さんが大喜びした、つて事がある。權利關係の問題でふつーは紙燒きでも返すものは返すのだが、返さないでおいて結果的には良かつたケースである。
(報道寫眞等、寫眞家や權利會社はオリジナルのフィルムを手もとに保存しておき、紙燒きなりデュープしたフィルムなりを出版社に渡す。出版社は本を作つたら、貰つた紙燒きやフィルムは返却する――さう云ふ契約なのだが、いろいろな事情で編緝部が寫眞を返さないで段ボール箱につつこんだままにしてゐたりする。後の時代の編緝者がそれらを不用意に再利用したりすると、權利者が見附けて、違約金を課したり裁判沙汰にしたりする。今はデジタルデータのやりとりになり、使用後はデータを破毀、つて契約になつてゐる事が多い)
(報道寫眞等、寫眞家や權利會社はオリジナルのフィルムを手もとに保存しておき、紙燒きなりデュープしたフィルムなりを出版社に渡す。出版社は本を作つたら、貰つた紙燒きやフィルムは返却する――さう云ふ契約なのだが、いろいろな事情で編緝部が寫眞を返さないで段ボール箱につつこんだままにしてゐたりする。後の時代の編緝者がそれらを不用意に再利用したりすると、權利者が見附けて、違約金を課したり裁判沙汰にしたりする。今はデジタルデータのやりとりになり、使用後はデータを破毀、つて契約になつてゐる事が多い)
周作人の書簡発見
東京新聞:日中つなぐ文豪の書簡 魯迅の弟へ、谷崎潤一郎ら1400通:社会(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015032602000276.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015032602000276.html
顧 偉良 | 教員紹介 | 学校法人弘前学院 弘前学院大学
http://www.hirogaku-u.ac.jp/faculty/graduate/bungaku/teacher/gu.html
※日本の各界人士による周作人あての書簡人名リスト(360名)
http://www.hirogaku-u.ac.jp/faculty/graduate/bungaku/teacher/gu.html
※日本の各界人士による周作人あての書簡人名リスト(360名)
阿Q正傳
我が親愛なるKirokuroくんが難解をもつて知られる阿Q正傳を「讀んだ」「讀んだ」と嬉しさうに言つてゐたのは既に數年前の事である。Kirokuroくんによれば阿Qから野嵜を想起したとの事であるが、それならば僕は阿Qに縁があるのである。しばらく忘れてゐたが、さう言へば……と手持ちの阿Q正傳の在處を思ひ出したので、手に取つてみた。
僕は中學生の時に讀書感想文の指定圖書だつたので當時旺文社文庫で讀んだのである。それ以來だから數十年ぶりの再讀と云ふ事になる。旺文社文庫は註釋が豐富で解説も懇切叮嚀であるのが特色の文庫だつた。學習參考書・受驗指導で定評のあつた旺文社が出した文庫だから、生徒向けに特化した作りになつてゐたのである。ロマン・ロランが阿Q正傳を絶讃し、阿Qの死に泣いたさうである。名前も書けない阿Qが書類に◯をつけて罪を認めた事にさせられるのだから、まあ、氣の毒な話である。
高杉一郎が文章を寄せてゐて、解説と同じやうに、阿Q正傳が支那人の奴隷根性を描いたものである事を指摘してゐた。解説によれば、發表當時、多くの讀者が自分を中傷されたものと思ひ込んで怒つたさうである。高杉氏は、マルクス主義者が盛に轉向し、保守政治家に從つて行く樣を語つてゐた。日本にも奴隷根性を持つた人間が澤山ゐた――「阿Q時代」と云ふ言ひ方を高杉氏は用ゐてゐる。高杉氏はシベリア抑留を體驗し、その時の樣子を綴つた『極光のかげに』で知られる。シベリア抑留の間にも、發表後にも、隨分いやな目に遭つたさうである。
僕自身は、なるほどなあ、「阿Qとは野嵜の事を言つてゐるのだ」と考へても、をかしくはないなあ、と思つた。
しかしながら、阿Q正傳を讀む際には氣をつけねばならない事がある。作者・魯迅は、支那のゴオゴリと呼ばれ、マルクス主義と淺からぬ因縁を持つてゐる。石川啄木が社會主義と深いかかはりを持ちながら人々を描寫したやうに、魯迅もまたマルクス主義と強い結び附きを持ちながら人々を描寫した。ここに渠等の文學の「難しさ」がある。中學生當時、僕は阿Q正傳を理解しなかつた。見た目の印象で「理解」する事が可能であるから、却つてマルクス主義文藝は解り難い。Kirokuroくんがそこまで理解して、僕を野Qと呼んで呉れてゐるのなら、見事である。阿Qを揄ふ周圍の人々とKirokuroくんが「そつくり」でも、僕は自分の印象をそのまま受容れるわけには行かない。阿Qを輕蔑する旦那衆にも、泣いてゐる人がゐるのである。阿Qを揄ふ人々の側にも、奴隷根性やら何やらの缺點は依然として存在してゐた。のみならず、無知の人をとつつかまへて、書類に◯を書かせて、罪人にする人もゐた。魯迅が如何なる意圖でこの小説を書いたか。「寫生」でないのは言ふまでもないが、單なる「社會諷刺」でもないのである。政治的な寓話として捉へておくのが良いだらう。さうなると――實はこの小説、僕の興味を外れてくるところがあるのである。
魯迅は阿Q正傳を氣樂に書き始めたが、次第に眞面目になつたさうである。一方、結末は無理やりにつけたものであるらしい。
【速報】粘着アンチの「義」が再び活動を開始
野嵜に粘着して嫌がらせをしてゐる「義」が再び活動を活發化させてゐる模樣。今度はTwitterに「@nozakitakehide死ね」と名乘るアカウントを作り、ぼっとにツイートさせてゐる。
なぜ? なぜ? なぜ?
官僚主導では駄目だ、政治主導でなければ行けない。では政治主導で日本をどう云ふ國にしようと言ふのか。元氣な國にしようと言ふのだ。日本を元氣な國にして何を目指すのか。
――ここまで政治家に尋ねたら全員話に詰ると思ふ。
「國家の謝罪」なる出たら目
國に謝罪させて喜んでゐる人々がゐるけれども、「國の謝罪」なんてものくらゐ空疎なものはないと思ふ。
大體、國が謝罪した、なんて奇怪な事態は、天地開闢以來一度もない。
「國を代表して謝罪する人」や「國に成代はつて謝罪する人」はゐる。けれども、「國なる存在」が椅子から立上がつてすみませんと言つて頭を下げる――或は土下座する――なんて事態は、一度として出來してゐない。國は法人であり、概念的な存在であるに過ぎない。
「國を代表して謝罪する人」や「國に成代はつて謝罪する人」はゐる。けれども、「國なる存在」が椅子から立上がつてすみませんと言つて頭を下げる――或は土下座する――なんて事態は、一度として出來してゐない。國は法人であり、概念的な存在であるに過ぎない。
菅談話の問題にしても「南京大虐殺」の問題にしても、俺が何に文句を言つてゐるのか、多くの人がわかつてゐない。
俺は、政治や歴史の場において「謝罪」なる道徳的行爲がそもそもあり得ない、と指摘してゐる。法人は反省も謝罪もしない。できないからだ。反省したり謝罪したりするのは個人のみである。
「國家に謝罪させる」なんて事は不可能なのだ。その不可能な事が恰も可能であるかのやうに、世間の多くの人が言つてゐる。しかし、できないものはできない。
その「できないこと」を「する」のが「よいこと」であるかのやうに言ふ――それは道徳の破壞に繋がる。だから俺は反對してゐる。道徳とは、個人ができる事をする中にのみ存する。
俺は、政治や歴史の場において「謝罪」なる道徳的行爲がそもそもあり得ない、と指摘してゐる。法人は反省も謝罪もしない。できないからだ。反省したり謝罪したりするのは個人のみである。
「國家に謝罪させる」なんて事は不可能なのだ。その不可能な事が恰も可能であるかのやうに、世間の多くの人が言つてゐる。しかし、できないものはできない。
その「できないこと」を「する」のが「よいこと」であるかのやうに言ふ――それは道徳の破壞に繋がる。だから俺は反對してゐる。道徳とは、個人ができる事をする中にのみ存する。
謝罪しろ謝罪しろと他人に要求してばかりゐる連中が、道徳的に立派だつたためしがない。
「謝罪しろ」は、相手に壓力をかけて嫌がらせしてゐるのを、もつともらしい正義の行動に見せかけるのに使ふ言葉である。
「謝罪しろ」は、相手に壓力をかけて嫌がらせしてゐるのを、もつともらしい正義の行動に見せかけるのに使ふ言葉である。
戰爭は消極的な意味をしか持たないのか?
俺が屡々がつかりするのは、右翼ですらも「戦争は悪い」と思つてゐる事。「自衞の爲には戰爭も已むを得ない」と右翼ですら言ふのだ。戰爭は日本人にとつて、せいぜい「已むを得ない」事でしかない、と云ふのである。
しかし、日本人に正義があり、正義を貫き通さねばならない時があるのなら、戰爭をするのは必然ではないか。
今の日本人は戰爭を仕掛ける事を惡事だと堅く堅く信じてゐる。これは今の日本人が一切の正義を持つてゐない事實を示してゐる。
政治的に考へてゐる人々
俺は左翼とか右翼とかを一括りに「政治主義者」であると理解してゐる。
日本では、左翼にしても右翼にしても樣々なありやうがある。敵同士だからと言つて左翼或は右翼に單純に分類しても、屡事實に即しない。
ただ、いづれの立場の人間も、「日本と云ふ國の事」を考へてゐて、政治的である點では變りがない。
http://twilog.org/nozakitakehide/date-100911/allasc
日本では、左翼にしても右翼にしても樣々なありやうがある。敵同士だからと言つて左翼或は右翼に單純に分類しても、屡事實に即しない。
ただ、いづれの立場の人間も、「日本と云ふ國の事」を考へてゐて、政治的である點では變りがない。
http://twilog.org/nozakitakehide/date-100911/allasc