闇黒日記?

にゃもち大いに語る

現代日本の右翼と左翼について

韓國人だの何とか人だのを差別しない爲には日本人としての自覺を捨てなければならないとか主張する日本人つて何うよ。

――「愛國心=誇り」と云ふ發想つて何なんだらう。「愛する=誇りに思ふ」つて事ではないぜ。女を自慢する事と女を愛する事とは違ふ。なんかその邊勘違ひして物を言つてゐる人がやたら多いんだが、何なんだらうか。

「左翼=自虐史觀」と云ふのは當つてゐる。左翼は自分の國を一見貶めてゐるかのやうに見えるが、實は自分の國の偉大さを誇つてゐる。自虐は自己愛の鬱屈した表現にほかならない。左翼が日本に侵掠國家「だつた」事を謝罪させ反省させようとしてゐるのは、日本が今「平和國家日本」である事を誇りたいからだ。
左翼が右翼を「自尊史觀」と罵つてゐるのは、「自尊」が「惡い事」だから、さうレッテルを貼れば最う論證拔きに右翼を惡人扱ひ出來るからだ。

基本的に左翼のする事はレッテル貼りで、論證は何一つない。右翼は右翼で、さう言はれるならさう言はれればいいと開き直る許り。
左翼は「自分の敵だ」と判斷すると、その人物を「右翼」の括りに抛り込んで、以降その人物が何を言つてゐるか一切理解しようと努力しなくなる。そして、何を言つても「右翼だからさう言ふのだ」「右翼だからその言つてゐる事の本當の意味は斯うだ」と極附けて全ての發言に耳を貸さなくなる。
右翼は、自分の身方だと判斷するとすぐその人物も右翼だと勝手に思ひ込むが、その人物が少しでも自分の信念に反する事を言ふと即座に「そいつは左翼だ」と極附け、「俺は裏切られた」と言つては嫌がらせを始める。

意地の惡い左翼。御人好しに見えるが實は腹黒な右翼。さう云ふ人が實際ゐるのだ。いやだなあと思ふ。と言ふか、左翼はお人好しでなければならないから、意地惡な左翼はその存在自體が矛盾だ。

人は何を議論すべきか

よくよく考へれば何でもかんでも疑はしいわけで、さうなると「議論に於て簡單に結論を出せる問題なんてさうさうない」と云ふ事だけが確實――と云ふ事になります。ところが議論で直ぐに結論を出さうとする人がゐる。
――議論をしようとする姿勢そのものが間違つてゐる。明かに惡い事を多くの人が一齋に糺彈するのも、結論が既に出てゐる事についてえんえんぐちるのも、議論ではない。
交通事故の話で「車が惡い」「バイクが惡い」と相互に散々罵り合つてゐるスレを壺だか何處だかで見たけれども、あれは「互ひに讓り合つて」と云ふのが結論である事は動かしやうがない。その結論は兩派とも知つてゐて、それでゐて何時までも相手を罵り續けてゐる。議論ではありません。

自然科學の問題だと、實驗等で檢證でも反證でも出來るから、要は確認作業がきちんと行はれればいいだけで、議論が可能と言つても意外と話を出來る範圍は廣くありません。
政治の話なんかは最う議論の場で決着がつく事を期待しては行けないので、「議論」はただ互ひの主張を述べ合ふ場であり、見てゐる人へのアピールの場であるに過ぎません。

政治でも經濟でも、「自分の主張は神の主張と同じで100%確實に正しい、誰某の主張は神の主張に逆らふ惡魔の主張で叩き潰さなければならない」みたいな事を言ふ人がゐる。これが一番愚かだと思ふ。政治でも經濟でも「100%確實」なんて事は絶對にあり得ない。

價値觀や人の生き方に關はる問題――實はそれこそが議論に價する事柄で、人は「なぜ生きるか」の問題を論じなければならないし、それには全ての人が發言する權利がある。政治より道徳の方が劣つてゐると考へる人がゐるが、あべこべだ。政治なんかより道徳の問題の方が遙かに重要だ。
政治の議論では、非常に安直な主張の仕方が繰返されるが、非常に安易な價値觀の採上げられ方も繰返し行はれてゐる。それが私には大變不愉快に思はれる。「惡」と云ふ事が餘りにも簡單に定められて、それを基に他人を斷罪する――さう云ふ論者が極めて多い。

合理主義は信じ得るか

私もキリスト教は信じてゐませんが、今の多くの人が宗教なんて信じられないのでないでせうか。「宗教が全ての問題を解決する」なんて事は、現代に於ては期待できたものではありません。
宗教が無理「だから」合理主義――と云ふのも、合理主義の「論理」ですが、實はこれも信じる事が出來ません。と言ふか、私に言はせれば、合理主義もまた信ずる事が「できない」。
合理主義はイデオロギーであり、イデオロギーは所詮擬似宗教に過ぎません。

キリスト教と合理主義

歐米諸國や中近東の邊の國ではキリスト教イスラムが歴史的に浸透してゐて、國民は大體生き方=文化として宗教の發想を受容れてゐる。具體的な教義を信ずる信じない以前に考へ方が身に附いてゐる。そこでは思想の相違があるにしても表層的なもので、根本的な部分では無意識にでも相互の諒解がある。
宗教の命令は絶對の命令で、信者の反論を許さない。だから「惡」とは何か、は決つてゐる。

絶對の命令を排除し、「全てを疑へ」の精神で行く合理精神は、キリスト教への反抗から生じたものだ。それは人が物を客觀的に見る目を養つたが、主觀に關してはノータッチだつた。或は、主觀に關はつた時點で、擬似宗教への接近であつた。合理精神の主觀への干渉は常に失敗に終はつた。
合理主義は客觀的に物を見る精神として出發したが、元々キリスト教に逆らつたものであり、アンチキリストのイデオロギーだつた。一方キリスト教は良く出來た宗教で、樣々な近代的な理念を育てた。合理主義者もそれは認めざるを得ず、合理主義で理念を説明してキリスト教から絶縁させようとした。それは巧く行つてゐない。
合理主義にも限界がある。その限界は或意味キリスト教が既に突破してゐたものだ。もちろんキリスト教にも限界があり、合理主義はそれを衝いて、結果として今の地位を得てゐる。が、結果として合理主義もキリスト教も不完全で、現實の人間社會には完全に適應できないと云ふ状況に陷つてしまつた。

日本は思想的に未發達の國で、明治時代、後進國として歐米の思想や技術を採入れた。その時キリスト教は採入れず、和魂洋才で行く事とした。けれども實は和魂なんて存在しなかつた。そして弱點のあるにもかかはらず合理主義を良いところだけを見て採入れようとして、現在非常に難しい状況に陷つてゐる。

議論は成立ち得るか

議論において、我々は客觀的に物を見ようとしながら、實に屡々多くの重要な事を見落とす――それも容易に結論を導かうとして。
ところがそれゆゑにその「簡單に引出された結論」が納得されず、或は強力な力を持ちながら依然として何處か嫌な後味を殘す。我々はもつと率直に語るべきだと思ふ。
議論になつてゐる時、その議論の對象となつてゐるものを、もつと良く見て、正しく受けとめる必要がある。價値觀と云ふものが絡んで來るならばそれもありのまゝに受止めねばならない。價値觀・主觀と云つたものも實在物として客觀的に檢討すればいい。それが正直な議論と云ふものだ。

「議論は成立ち得るか」――「議論は成立たせねばならない」と云ふ價値觀を論者が共有してゐなければ成立つまい。
議論を成立たせよう、と云ふ意識のない人が參加する「議論」は、言爭ひの域を先づ出ない。ただの意見の押附け合ひに陷らざるを得ないからだ。意見の押附けなら意志の押附けであり、最終的には暴力に行かざるを得ない。私はそれを良しとしない。が、それを良しとする人は結構ゐるのだ。案外さう云ふ暴力主義者がウェブには多い。
私は、正直な議論こそが建設的な議論だ、と信ずる。しかし、自分にとつて都合の良い結論が「出る」事が「建設的な議論をした事」になるのだと信じてゐる人がウェブには結構澤山存在する。勿論そんな結論を出して呉れる裁定者等ゐないから、さう云ふ人は目の前の論者を泣かせる事で「結論が出た」事にしようとする。

「惡」の概念

カンニングをした」とtwitterで「告白」した學生が吊し上げられてゐる。「カンニングは惡い事だ、そんなの當り前だ」とほぼ全ての人が漠然と思つてゐる。だが、なぜ「惡い」事と言へるのか、そもそも「惡い」とは何なのか、と問はれると、誰一人答へられないと思ふ。
日本人は一人として「惡い」とは何かを説明できない――少くとも宗教を信じてゐない日本人は。
無神論で合理主義者の人は社會や共同體の秩序維持を理由に説明を試みる。しかし同じ人が秩序を拒否して國家や政府を否定してゐたりするのだから訣が解らない。合理的には惡の概念を定義できない。
「他の人が迷惑する事は惡」と云ふ定義は、觀念的に成立つだけで、「迷惑をかける側」には何の意味も持たない。「迷惑をかけられると困るから排除する」と云ふ考へはあり得る。しかし、「別に排除されても構はない」と言はれたらそれまでだ。
――そこで依然として「惡」の概念を論ずる事は可能か。

「社會的に迷惑な事」が「惡」であるならば、「別に他人に迷惑をかけても自分さへ良ければそれで良い」と考へる人にとつて惡事であると自覺する事はその行爲を思ひ止まる動機とならない。さうなるとこの定義はただの觀念的な定義でしかないわけで、ならば實質的には何の意味もないと云ふ事になる。
損得勘定だけで人が動くなら「他人に迷惑をかけない限り自由」と云ふ「互ひに調節し合つて生きる方法が一番」と云ふ合理主義者の發想が出て來る。けれども、「他人を抑へ附けて自分だけ得しようとする賭け」に突走る人が出て來る事もあり得るし、有能な人ならばそれが結構可能だ。
「社會の秩序維持=善」と云ふ發想は、「自分が死んだら全部終りだろ」と云ふ發想をする人に對して説得力を持たない。「何で自分が死んだ後の社會の事まで考へなければならないのか」「そもそも社會の成員たる人間は何うせ死ぬだろ」――斯うした疑問に合理主義者の人はどれほど強力な反論が可能だらうか。

「惡」の概念が説明され得ない以上、「惡」を糺彈する行爲の正當性が存在しなくなり、同時に、「正當性がない行爲=惡事」を糺彈すべき理由もなくなつてしまふ。
「社會のルール」は「社會そのものを否定する立場」「自分を最優先にする立場」からは「無視していいもの」である。「社會のルールを無視した」と言つて非難する行爲は何處まで説得力を持つだらう。
「社會を否定する」のみならず「人間を否定する」或は「現世を否定する」立場から無差別殺人を行つた人に「惡い事をした自覺はあるのか」と尋ねても、そんな自覺がある訣はない。さうなると、何うやつてその人を改悛させる事が可能か。

「誰でも人は死ぬんだ」と言はれて、「しかしそれでも社會は大事だ」と言返しても、説得力はあるだらうか。「ただの開き直り」「負け犬の遠吠え」と罵倒しても――罵倒は「自分が優位に立つてゐる事を確認する行爲」でしかないから相手を改悛させる爲には何の役にも立たない。
「社會のルール」が「ある」と言つても、それは事實を確認したに過ぎない。事實から「べき」論に話を飛躍させるのは無理だ。「社会のルールを守らないのは惡である」と言つた時も、それは單にネーミングをしただけに過ぎない。「惡」とレッテルを貼つただけ、と云ふ事だ。

「惡人」が悔悛しないからと言つて死刑にして、社會の秩序を維持したとする――これにはどんな意味があるのだらうか。
現在、多くの人が「社會の秩序を維持する必要がある」「なぜなら私逹は生きてゐるし、生きてゐたいから」と考へてゐる。けれども、「別に生きてゐなくてもいいや」と考へる人が大多數となつたら何うなるか。

「議論」と云ふ觀點から言へば――「惡事」に對して「非難する」と云ふ行爲が成立つか。成立たないならば、非難が行はれるのはをかしな話だ。しかし、をかしな事・惡い事を非難する謂れもないわけだから、惡い事を非難してゐる人がゐても止めるわけにも行かない。

「社會のルールを破つた」に對して「社會のルールを破つて何が惡い」と云ふ開き直りのやうな反論がある。これに對して我々は「開き直るな」以上の説得力のある再反論ができまい。ところが「開き直るな」はただの命令で、論理的な反論でない。
――となると、反論出來ない側がより説得力のある理窟を言つてゐる人間を、暴力で默らせようとしてゐる事になる。
暴力的であつても別に「社會のルール破り」を抑へつけるならばそれでいい、と考へるならば――しかしその時、非暴力的に議論をする事の意義は失はれないか。我々が議論をする意義は何だらうか。
また、暴力で解決するのが許されるならば、間違つた事を言つた人をtwitterやはてぶや壺で叩き捲る暴力的行爲が許される事は自明でないか。

社會のやうな「現世の事」を持出して説得に用ゐた場合、「人間は最後には死ぬだろ」と言返されたら反論出來ないと云ふ問題がある。
twitterや壺で「社会のルール」「秩序」に關して(政治に關して)議論をしてゐる人々の多くが「人間の死」の事を考へないで濟ませてゐる。
政治について論じてゐる人は「しかし人間は死ぬんだぞ」と指摘されても「そんな事は考へる奴がをかしい」と極附けて、元氣に議論を續ける。けれどもさうやつて思考停止し、議論を續けて、何か益があるのだらうか、と私は思ふ。
死を持出して反撃する人には「死を超えた價値」を提示するしか論理的に壓倒できる方法はない。それは宗教に属する價値觀だが、合理主義者にとつて宗教は非合理であり受容れられないものだ。となると合理主義者に據る合理的な説得は不可能、と云ふ實に困つた結論に至らざるを得ない。
――斯う云ふ檢討をして見せると「野嵜は危ない」「頭がをかしい」と云ふ結論に多くの人が飛附くと思ふけれども、私にしてみればこの程度の事を念頭に置いて物事を考へる事の出來ない人々の言ふ事など淺薄でとても信用出來たものではないと云ふ事になる。

誰も宗教を信じろなんて言つてゐやしないので、ただ價値觀や主觀を排除した筈の合理主義が屡々價値觀や主觀に介入してくる胡散臭さをもつと自覺しろと言つてゐるのである。
實際、價値觀を扱ふのならば「人間にとつての價値觀の意義を考慮した合理主義」こそが要請されるべきなのだ。從來流布して來た俗的な「客觀主義としての合理主義」なんてもので滿足し切つてゐる多くの合理主義者諸氏に私は反省を促したい。
進歩的で理性的・合理的、と云ふ事を標榜してゐる左翼の人にも、「お前はそんな事で生きてゐる價値があるのか」と、飛んでもなく古めかしい封建道徳を持出して、敵を責立てる人がゐる。彼は矛盾してゐるのだが、さうした矛盾が平氣で言出されるのも結局その人が「物を考へない」事に起因する。
一方、右翼の人々にも猛省を促したいのだが――「死を超えた價値」或は宗教と云ふものを、實はあなた方自身も信じてゐないのでないか。少くとも、相手を説得できるほど宗教を理解してゐないのでないか。
現代において、死を全面に出して戰ふアウトローは所詮アウトローで、汎く一般に「説得力を持たない」。勿論その「死」と云ふ事實は絶對で、多くの人が目を背けてゐる現代では「説得力を持たない」にしても、絶對に磐石の理論的基礎たり得る。が、現に「説得力を持たない」時代の趨勢は認めなければならない。

高島俊男の困つた主張――「訓讀みは無意味である!」

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-
http://synodos.jp/international/12340

「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
http://yuki-chika.hatenadiary.jp/entry/2015/01/15/040433

シャルリー・エブドの諷刺畫が何うとか、言論の自由が斯うとかいつた話には觸れない。
問題は高島俊男。高島の撒き散らす誤つた言説が本當にあちこちに酷い惡影響を與へてゐて、これは本當に困つた事だと思ふ。

「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。(『漢字と日本人』)

高島俊男は阿呆な人間なので、我々の御先祖樣がなぜ同じ「とる」を漢字で書き分けようとしたのか、それを考へない。考へないで、「書分けようとする人間」を脅す事で、自分の好みを他人に押附けようとする。

わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな人たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。

「わたしのような知識のある者」と言つてゐる高島がこんな事を言へば、高島自身が「おろかな人たちをおどかす人間」になる。それが高島にはわからない。
高島自身の論理により高島が有害である事は確定する。それではまづい筈だが、高島は氣にしない。結果として自分の主張が押附けられればそれでいいからである。大抵の讀者は「知識がある」と云ふ事だけを氣にし、理窟を氣にしない。高島は讀者をなめてゐるのである。
閑話休題

昔の日本人はなぜ漢字の訓讀みなんてものを考へたか。それが便利だつたからに相違ない。便宜である。しかしその結果、あまりにも貧弱だつた日本語の語彙は擴張される事となつた。我々はその意義を認めるべきである。
我々の先人は訓讀みの效能を認め、異る概念をしつかり書分けるやうに努めてきた。それが「権威主義」に繋がつたとしても、副作用であるに過ぎない。
日本語の「とる」は「取」「採」「捕」「執」「摂」「撮」などの漢字の「訓讀み」とされた。その結果、從來曖昧に考へられてゐた「とる」なる語は、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などの異るニュアンスの概念を含むものと初めて日本人に理解された。「とる」一本槍で何でもやつつけてきた日本人は、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などの漢字を知る事で、異る概念を區別する事を學び、精密に考へる事を學んだ。これは進歩である。

――高島俊男はさうした進歩を兔に角全て無に歸したいと願つてゐる。なぜか。いいかげんに考へるのは樂だからである。
樂な事が現代の日本人は大好きである。今の時代、何でも「樂になれ」と言へば受ける――樂に書く事を高島は現代の日本人に説く。高島は人氣を得たくて、受けを狙つて「樂になれ」と言つてゐる。冗談ではない。個人の受け狙ひなんかのために、先人の智慧が否定されてはたまらない。

自分は歴史的かなづかひの支持者であると高島は言つてゐる。しかし週刊文春の連載でも高島は歴史的かなづかひで書いた事がなかつた。
高島は歴史的かなづかひ派にもいい顏をして見せてゐるが、實は「現代仮名遣い」派なのでないか――高島は國語改革を肯定してゐるのでないか。私は疑つてゐる。

ちなみに、漢字をかな書きする高島俊男の書き方は、原稿の水増しである。「量る」を「はかる」と書けば一文字原稿を水増しできる。「私」を「わたし」と書けば二文字水増しできる。誠實な書き手ならお金を貰つて書く原稿は壓縮して書くものだ。

攻撃性なるもの

「一方的な攻撃」と「防衞の爲の攻撃」とを故意に混同する人がゐる。非道い嫌がらせをされた人が反撃すると、嫌がらせをしてゐる當人が「こいつの攻撃性は明かだね」等と言つてみせる。

多數派・少數派・二大政黨制

日本人は、何か一つの物にわーっと群がつて、喰ひ盡しては別の物に移つてまた食ひ盡して……と云ふのが大好きな國民である。兔に角「一齋に動く」事を好むから、少數派の立場がない。一方、「しやぶり盡して捨てる」のを惡い事と思はないから、多數派がした事は結局後に何も殘さない。
アメリカ人は少數派の人間の立場を尊重する。けれどもそれは結局多數派が安定多數で餘裕でゐられるからだ。自由の國アメリカの國民は大體自由の鬪士であり、自由を守る爲には戰はねばならない事もある、と信じてゐる。さう云ふ多數派がゐる中で反戰活動家が一人二人ゐたところで「放つておけ」と云ふ話になるのは當り前。餘裕があるのだ。
アメリカの二大政黨制は、絶對的な價値觀の對立に據るのでなく、自由を認める價値觀で完全に共通する國民が、自由の實現の方法で對立を生じてゐるだけだから、根本の部分で一貫してゐるので、問題なく成立してゐるものである。
日本は、歴史的に思想の混亂が非道く、國民の間で價値觀が共有されてゐない。だから二大政黨制になると、あつちの政黨とこつちの政黨とで完全に考へ方が對立し、政權が交替する度に國家として一貫しない行動を取る事になる。多數派が相對的な多數に過ぎないから少數派に對する憎惡も激しくなる。
國家の中でのみならず一つの政黨の中ですら思想的な對立が生じ得る。だから思想の事は放つておいて權力奪取だけの爲に一つに纏まつて政黨を作るなんて事も起り得る。が、さうなると、政黨の中での權力爭ひも發生し、政治的に目茶苦茶になる。
自民の政治を、外部から民主が非難してゐるが、別に外部から非難すべき理由は――殊に日本では全くなく、一つの政黨の中で爭つてゐても全くをかしくはない。實際、以前はさうした爭ひは自民党の内部に留まつてゐた。派閥抗爭は有名だつたが、自民が分裂した爲に党と党との對立・競爭に「變化」したやうに見えてゐる。それだけの話だ。
今の自民と民主は、嘗ての自民の派閥が政黨に名を變へただけに過ぎない。やつてゐる事は前と全く變らない。

「炎上」とか言ふもの

みんな安易に炎上炎上言過ぎ。

右翼の發言に左翼が群がるのは炎上か?

「惡い事をした、反省しました」「惡い事をした、ざまーみろっ」――これらの發言にそれぞれ大量のコメントが附いた。この時、どちらも「炎上」と云ふ事になるか否か。

「論理的でない、妥当でない批判」と云ふものが成立つのか何うか。
批判は常に論理的であり妥當であるべきである。非論理的で不當なのは非難と言つて區別すべきである。

――「批判」と「誹謗」が不用意に混同されてゐないか。

批判が集中する發言は、發言者に問題がある。
非難が集中する場合は、問題のある人間が何らかの惡意を持つて集つてゐる場合がある。

「炎上なる現象」を全て同列にあるものと看做して、「問題がある」「ない」と極附けても意味は無い。個別の發言についてのみ、問題の有る無しを論ずる事が出來る。
妥當な批判が多い場合には、批判された發言に問題がある、
不當な非難が多い場合、非難してゐる人に問題がある――傍から見て第三者はさう判斷するしかない。

自由に批判が出來ない社會は息苦しい。
不當な非難や人格攻撃によつて自由な批判が封殺される社會は大變息苦しい。

「批判が封じ込められ、誰からも文句を言われず『自由』に物を言える社会」を多くの人が望んでゐる。しかしそこは本當の意味で自由に物を言へる社會ではない。

「そもそも批判されるやうな惡い事をしない」「見えないところで惡い事をしてしまつてゐても、SNSなどで大つぴらに言はない」と云ふのは常識的な態度だ。

「惡い事をした人が叩かれる」「惡い事をしたと公言して炎上する」――當り前だ。

「批判は存在すべきでない」「炎上は防ぐべきだ」と云ふ主張を無條件に主張するのは寧ろ危險だ。

「惡い事をするのは惡いに決つてゐるし、惡い事をしたと自慢するのも惡いに決つてゐる。けれども惡い事をしたり言つたりした人を叩くのも惡い」のやうな「喧嘩兩成敗理論」位無責任で安直な主張はない。

批判批判とか言ふもの

批判を目撃すると「批判をした! 何て惡い奴なんだ!! キー!!!」みたいに言出す人がゐる。ウェブは怖いところだ。

「ぼくは批判が悪いとは言ってません。批判をしていい気になっているN氏がみっともないと言ってるんです」みたいな攻撃の仕方――これには何と名前を附ければ良いだらうか。

政治主義と云ふ名の嘘つき

日本人には嘘吐きが多い。

左翼には嘘吐きがいつぱいゐる。これは擁護できない。彼等は、「個人の權利を守ろう」と言ふ。しかし、彼等の守りたいのは「權利の概念」に過ぎない。實際のところ、彼等は屡、個人の權利を侵害して喜んでゐる。
斯う云ふ嘘附きは自分が嘘吐きだと自覺する事すらできないから本當にたちが惡い。

右翼もまた嘘吐きたり得る。彼等は「個人の仁義を重んずる」と言ふが、同時に國家や共同體の秩序を大變重視する。當然の事ながら、個人に對する裏切りを國家や秩序の維持を名目に平然とやらかす事になるが、それは左翼のやつてゐる事と同じで、許しがたい惡である。
右翼も左翼と同樣、個人の關係を輕視し、社會や國家の<概念>を優先する。

政治を優先する人々が、個人の問題に屬する道徳に關して、まともな考へを持つ事はない。彼等は屡々他人を嘘吐きと非難する。それはただ他人の足を引張るのに都合が良いから言ふだけだ。
本氣で<嘘を吐く>事を道徳的問題として捉へてゐる政治主義者はゐない。そもそも彼等は自分が嘘吐きである事實を何とも思つてゐないし、反省する積りもない。

人を憎んで罪を憎まず???

「叩かれるやうな事を言つた人を叩くのは惡い事で、他人を叩いてゐる人を叩くのは良い事だ」と、本氣で信じてゐる人がゐる。

「叩かれる覺悟の無い人を叩くのは惡い事だ。他人を叩いてゐる人は叩かれる覺悟があるんだろ、なら叩いてやるよ」――斯う云ふ妙な<精神論>で何でもかんでも考へる人は、粘着アンチになり易い。
批判は「その人に批判される覺悟があるからする」と云ふものではない。批判されるべき客觀的な理由があるから現れる。ところが、何でもかんでも主觀的な理由にすり替へて、批判者を攻撃する理由に故事つける人がゐる。これが許されるならば、何んな無法でもあり得る事になつてしまふ。

多くの日本人はまだ言論の自由を理解してゐないから、<批判>とは何なのか、と云ふ事も理解してゐない。だから批判と云ふ行爲の意義を考へる事が出來ず、無闇矢鱈と暴力をふるつてゐるかのやうに感じてしまふし、「毆られたら毆りかへす」と云ふ「論理」で批判を封じ込めるのを當り前だと思つてしまふ。
批判や批評が公的な行爲であるのを理解出來ない人が、それらを私刑だと勘違ひして「やめろ」と叫び、暴力的に封じ込めようとしてしまふ。

苛めつ子にも頭のいい人間がゐるから、批判を暴力的に封殺するにも尤もらしい理窟を故事つける――「これも批判だ!」と言張るのである。
<批判とは何か>。みんなもつとよく考へるべきだ。

「全てを疑へ」?

「全てを疑へ」と云ふ格言は危險だ。寧ろ「物事はありとあらゆる方向から見よ」と言つた方がいい。「疑ふ」許りでなく「信ずる」事もまた撰擇肢に入つて來る。

正字正かな攻撃五つのパターン

正字正かな攻撃五つのパターンと云ふネタを考へた。

・旧漢字は読みづらいです。だから旧仮名遣いはやめてください。
正字正かな信者は人間のクズ。
・現代仮名遣いはすでに定着している。
・×の正字体を出してみろ。

あと何かあるかな。