闇黒日記?

にゃもち大いに語る

宗教學における四つの分野

岸本英夫が、「人間の信仰に基づく生活行動を対象とする学問」即ち宗教学を、四つの分野に分類してゐる。
それは――

・神学
宗教哲学
・宗教史学
・狭義の宗教学

――の四つである。

神学は「特定の信仰を持つ研究者が、自己の帰属する信仰を、主として護教目的から思弁し、弁証する学問」だ。だから主觀性は免れない。

宗教哲学は「特定の信仰的立場に立つのではなく、複数の宗教を対象とし、普遍的な真理性の尺度で、宗教の本質、即ち形而上的な意味と価値とを明かにしようとする学問」だ。「宗教が持つ普遍的真理性」を問題にする學問であり、「それが依拠する方法としての哲学が持つ性格から、ある意味での客観性を備へてゐる」學問だと言ふ事は出來る。
けれども、價値そのものを扱ふ點で、或は「あるべき宗教の姿」を問題にする點で、「規範学」であり、「事実に即するといふ意味での客観性」を備へてゐる訣ではない。

一方。
宗教史学と狭義の宗教学は、「人間の信仰的営みに関する「事実」のみを取扱ふ」學問だ。
宗教史学は「時間を軸に観察された宗教現象をその上に位置づけ、その展開を記述する」學問である。狭義の宗教学は「時間軸を無視し、それが人間の営む信仰行動である限り、等しく同一基準で取扱ふ」學問であるが、複數の宗教を比較し、「通宗教的な視点から、『宗教とは何か』」を問ふ學問である。

神社新報社が發行してゐる神道のテキスト「神道神學」で、著者の上田賢治氏は、斯うした分類を説いた上で、神學なる學問の方法的な特色を明かにしようとしてゐる。
神道神學」で上田氏は、神學が單なる一個人による信仰告白と異るものである事を述べてゐる。信仰告白は、「ある特定個人の性格・資質・知識・環境条件などと切り離して、普遍的なものとはなし難い性格」がある。「しかし神学はさうではない」と上田氏は言ふ。「自分がさう信ずるといふことで終るのではなく、その信仰が、神道に例を取って言へば、果して正しい神道信仰と言へるかどうか、それが常に問はれてゐるからである。」どんな個人の信仰でも、それが或宗教の信仰であると言ふのなら、その信仰の教義に反しないものでなければならない。「いかなる信仰と雖も、その自己同一性を保つためには、信仰上の基準が何らかの形で問題とされなければならない。それを信仰の伝統に根差し、理性的・批判的に問はうとするのが、神学なのである。客観的でなくして成立しうることなど有りえないのは、明かだと言ってよいだらう。」自分の信仰が主觀的な信仰であつても、それを一度客觀的に見て、正しい信仰に照し合せて見る事が必要である、と云ふ訣である。
「しかし神学は、そこで展開提示される価値が、誰れにでも自己の価値として受け容れられるといふ意味での、普遍性や客観性を目指してゐるのではない。」慥かに、一宗教の教義の中で展開される學問である事は、認めなければならない。だから、信仰を他者に押附ける事は不可能だと言つて良い。けれども、「神学は例へそこに提示された価値へのコミットメントが、これに接する者にとって不可能である場合でも、それがいかなる世界認識や人間理解に基づいたものであるのかを、対者に向って理性的に理解されることが可能な内容を備へてゐなければならない。一般に言ふ主観に支配された在り方で、このやうな学問が可能である筈はないのである。」

上田氏は、文化科学・社会科学の領域における主觀・價値意識の重要性を強調し、反省を促す。
もし徹底した客観性、対象との距離が要求されるとすれば、岸本が科学として性格づけた宗教史学や狭義の宗教学でさへ、果してそのやうな性格を備へた學問でありうるのかどうかを、我々は十分疑ってみる必要が出て来よう。
宗教史学の記述も、主觀によつて豫め「宗教と關係がある」として選別された事象を取扱ふものである。そもそもの歴史學ですら、事象の選擇の時點で價値觀が介在してゐる。
客観的・科学的と自称する宗教学でさへ、現実にはこのやうな矛盾を持ってをり、その結果、研究の在り方は研究者個人の価値的判断にゆだねられてゐる、と言っても決して過言ではないのである。

これに對して神學は、「主観的学問を代表する」學問であるが、矢張り他者との關係に於て自己を再認識する事が必要となる。自己とは異る他者との出會ひによつて、我々は自己の信仰を客觀的に見る事が出來る。

上田氏は、「神学が護教学であることの意味」を強調してゐる。
神学は確かに、その信仰が他者からの批判・非難を受けた時、これを弁護する役割を荷ふ。しかし、神学は決して、自己の誤を糊塗したり責任を回避したりすることのためではなく、むしろ批判者の誤解を正すためにこそあるのである。護教の営みは、正しい信仰を守ることが目的であるに外ならないからである。従って護教は、単に信仰の外部に対してのみ向けられた営みなのではなく、むしろ本来は、信仰の内部に向けられた営みであったと言はなければならない。
他者の誤解を正す事が神學の使命であるが、それは同時に、自己自身が信仰を誤解しないでゐる事を必要とする。當然の事であるが、案外忘れられ勝ちだと云ふ事で、上田氏は強調してゐるのである。
自己の信仰が、正しく自己の帰属する信仰に照らして、成長の道を歩んでゐるのかどうかが、常に問はれてゐなければならないのである。この意味で神学は、信仰者個々人の日常的な営みとしての性格を持つ『信仰検証の学』なのである。
自己の信仰は常に檢證し續けて行かなければならない。だから神學は全ての信仰者に必要である。神道は護教の爲の學問であるが、「護教とは、本来そのやうに厳しい意味を持った言葉であることを、忘れないやうにしたいものである。」宗教史學にしても狭義の宗教學にしても、研究者は常に神學を念頭に置いてゐなければならない。
もちろん、一般に、學問の研究者には眞摯な姿勢が求められる。が、宗教學の研究者には殊更にさうした態度が要求される理由がある、と上田氏は述べる訣だ。

とは言へ、我々は宗教者ではないにしても、一般に價値觀に關係する人文學の研究者は――否、人間は全て、價値觀を持つのであり、價値と無縁の存在ではないのだから、宗教者にとつて必要な態度と云ふものも、宗教者でない我々も皆、身に着けておかねばならないのだ。