闇黒日記?

にゃもち大いに語る

福田恆存は「稼ぐ」事に興味があつたと主張する異常な人物――汝の名は「福田恒存をやっつける会会長」

『増補版 私の國語教室』(新潮文庫)より。

第三章。

……。雜誌や單行本の編輯者のなかには、たくさん賣るためにはどうしても「現代かなづかい」にしなければだめだと思ひこんでゐる人がをりますが、言ふまでもなく、これは單なる先入觀に過ぎません。試みに吉川英治氏の小説を歴史的かなづかひで出してみるといい。賣行きは少しも變らないでせう。いや、現に谷崎潤一郎氏の『鍵』は歴史的かなづかひですが、それはこの作品がベスト・セラーになるのを少しも妨げはしなかつた。もし『鍵』は主として歴史的かなづかひで育つた中年層に受入れられたからだと言ふなら、三島由紀夫氏の小説を例にとつてもよろしい。彼も歴史的かなづかひで書いてをりますが、やはり大抵ベスト・セラーになります。同樣に、わたしが「現代かなづかい」に改宗したところで、それだけ印税收入が殖えるといふこともありますまい。たびたび私事を言ふやうですが、いま中學一年の私の長男は學校で漱石の話を聞いてきたのでせう、夏休みに『坊つちやん』と「吾輩は猫である」をたてつづけに讀み、大層おもしろがつてをりました。それらがいづれも歴史的かなづかひで書かれていることは申すまでもありません。それにもかかはらず、文中理解できぬ箇處の質問は耳なれぬ言葉や漢語の意味に限られ、かなづかひの讀みについて不審をただしたことは一度もありませんでした。そのことと併せて、漱石が今日でも壓倒的に青少年の讀者を集めてゐること、際物のベスト・セラーなど遠く及ばぬことに注意していただきたい。かなづかひの舊新は決して本の賣行きを左右いたしません。ある本を買ふか買はぬかを決めるのに、店頭でいちわうかなづかひを調べてからするといふ人はまづ無いと思はれます。といふことは、どんな若い人でも歴史的かなづかひを「現代かなづかい」同樣、容易に讀みこなしてゐるといふことです。
それにもかかはらず、歴史的かなづかひでは賣りにくいといふ先入觀が一部の編輯者のうちにあることは事實です。編輯者だけではない。一般の文筆家も同樣の先入觀に囚れ、心ならずも自分の著書を「現代かなづかい」になほして出すことを認める人もゐるやうです。しかし歴史的かなづかひが讀みにくいといふのは全く根も歯もない迷信であります。今まで一度もそれに接したことのないものでも、彼が日本人である以上、その文字と音とのずれをことごとく讀みあて、しかも十頁も行かぬうちにそのずれの法則のすべてを類推で歸納しうるはずです。事實、戰前にはどんな無教育なものでも、歴史的かなづかひを皆そのやうにして讀み習つてきたのであり、今日の國語改革論者が大仰に宣傅するやうな意思傅達の混乱など露ほども生じなかつたのであります。

これに對して、「福田恒存をやっつける会会長」は、斯う述べる。

ともかく国会図書館に収蔵されているこいつの著書およそ400冊のうち半数近くがこいつの排撃していた現代かな表記、しかもこいつがかの駄作「私の国語教室」で現代仮名遣いを品性皆無の悪口雑言で攻撃している最中にも、いけしゃあしゃあと現代仮名遣い表記の著書を出版しているのですから、その品格のなさ、言行不一致を臆面もなく実行している糞野郎は古今東西のいずこを探しても 二枚舌の卑劣漢にして徴兵逃れの卑怯者福田恒存の右に出る人間は皆無であります。

「会長」は「事實として福田は現代かなづかいで本を出してゐる」と言ふのだが、「出してゐる」事實に對して「言行不一致である」「卑劣である」と「会長」は言つてゐる。この時、「会長」は、事實ではなく、自分の解釋を開陳してゐる。ところが「会長」は、自分の言つてゐる事が解釋である事に氣附いてゐない。「事實だから俺に反論する事は許されない!」と「会長」は威張つてゐるのである。ところが、提示された一つの解釋に對して別の解釋を提示する事は許される。それを「会長」は聞入れず、ひたすら「自分の解釋だけが正しい」と言張り續ける。剩へ、その「自分の解釋」を力づくで他人に押附ける爲、各地の掲示板に宣傳し捲る、Wikipediaに記述を書加へる、等の「暴力的」なやり方を平然ととる。そして、斯うした宣傳(と言ふより風説の流布)を、「とても良い事」だと「会長」は心から信じてゐるのだ。
異常極まる。


佐藤俊と云ふ人が「会長」の餘りに非道い極附けにあきれ果てて反論してゐる。この福田氏の記述を佐藤氏は
歴史的仮名遣いは読みにくい」という俗説に対する反駁
だと解釋してゐる。この解釋は妥當――福田氏の意圖に適ふものだし、まともな讀み手なら全員そのやうに受取る筈だ。
ところが「会長」は、實はこの記述それ自體を問題視してゐるのではない。ただ、もつともらしく福田氏を非難するだけの爲に、それつぽい「事實」として、この文章を持出しただけだ。
「会長」は、『私の國語教室』と云ふ本を書いて福田氏が「現代かなづかいに反對した」事、それ全體を問題にしてゐるのだ。

と言ふのも、「会長」は、「現代かなづかいに反對するならば何んな理由があつても現代かなづかいで本を出す事は許されない」と云ふ價値觀があるからで、この「何んな理由があつても」と云ふ部分がをかしいのだが、この「一切言ひ訣は認めないぞ」と云ふ「会長」の「決意」が、「会長」をして頑なに他者の解釋を認めない態度をとらしめてゐる――と言ひたいがが、話は逆で、意地でも福田氏を惡人に仕立て上げたい「会長」だから、福田氏を責め立てる論理に、「何んな理由があつても認めない」と云ふ條件を附けておく事で、福田氏や福田氏の「信者」の反論を封じ込めようと云ふ意圖があるのである。
要は、「俺が斯う思つたのだから、俺以外の人間は俺の考へに問答無用で從へ!」と「会長」は言ふのだ。

なんと傲慢な態度だらうと思ふのだが、斯う云ふ慢心した人間が反省する事はない。そして、慢心してゐるからこそ、この「会長」は飛んでもない言動を何時までも繰返して愧ぢる事がない。「粘着するのは良い事だ」と、喜六郎や「義」と同樣、「会長」も信じてゐるのだ。

もちろん、福田氏が書いたのは、假名遣によつて本の賣行きが變はるものではない――假名遣の所爲で讀者が本を讀んだり讀まなかつたりする事はない、と云ふ事で、目的は歴史的假名遣の擁護だ。
同樣に、わたしが「現代かなづかい」に改宗したところで、それだけ印税收入が殖えるといふこともありますまい。
福田氏は斯う述べてゐるのだから、「新舊どつちのかなづかひでも、内容によつて本の賣行きは決まる」と考へてゐる事は疑ひやうがない。となると、損得勘定に基づいて福田氏が自分自身の意志で著書の表記を變へる事は絶對にあり得ない、と云ふ事になる。ならば福田氏の本に「現代仮名遣」で書かれたものが「ある」事を「金儲け主義」のやうな非難の仕方で責め立てなければならない必然的な理由はないと言はざるを得ない。「品格のなさ」等と云ふ非難の文句は、完全な人格攻撃で――そもそも「会長」自身にこそ當嵌る惡口だらう。實際、「会長」は學が無く、投稿される文章の文體はDQNそのものであり、「二枚舌」だの「卑劣漢」だのと云つた言葉を羅列する邊、品格のかけらもない。自分自身に品格がないのだから、「会長」が他人に「品格がない」等と罵倒の文句を投附ける資格がない事は火を見るよりも明かだ。ところが「会長」にはそれが解らない。頭が惡いからだ。そして、頭が惡いからこそ、暴力で何でも方を附けようとする――宣傳と云ふ手段で他人を騙し、それによつて自分に都合の良いやうな状況を出來せしめよう、さう「会長」は企んでゐる。なんと品性下劣な人間であらうか。本質的に品性下劣であるからこそ、「会長」は品行方正で潔白の福田恆存に嫉妬し、腹癒せの爲に「やっつける」事を決意したのだ。

「徴兵逃れ」に至つては、言掛りもいいところで、「会長」はただ邪推をして「福田やその信者は反論できないから俺の勝ち」と言つて好い氣になつてゐるだけの事である。もつともらしく、福田氏の言つてゐる事を持出して「矛盾」に見せかけようとしてゐるが、「もし徴兵逃れをやつてゐるのであつたら」のやうな假定を根據にするならば、斷定的に福田氏を「卑怯」だの何だのと極附ける事は許されない。
「もし~ならば~である」と云ふ言ひ方は、しかし「もし~でないのならば必ずしも~であるとは言へない」と云ふ言ひ方の裏返しである。
裁判で、檢察が「もし被告が殺人を犯してゐるのであれば、有罪であり死刑である」と言ひ、それを聞いた裁判官が他の意見を聞かず「なるほど、被告は有罪だな、死刑!」と納得して刑を宣告したら、裁判官は異常であり――そもそも、そんな異常な裁判はあり得ない。
檢察は「もし~ならば」と云ふ假定に基いた話をするのではなく、「被告は~をやらかした」と立證した上で求刑するし、その立證が妥當であり何うあつても犯罪行爲が事實であると言はざるを得ない事になつて裁判官は刑を宣告する。何うも怪しいのであれば、原則として被告は無罪である。疑はしきは罰せず。
しかも、「疑はしい」と云ふ疑惑を「かけられた」事はそれ自體としてその人物が惡人である事の證據にはならない。絶對にならない。
「会長」には、その邊の事が全く解らない。「会長」は、疑ひをかけさへすればその相手が惡人に「なる」と信じてゐる。
或は、「会長」は、「反論されなければ勝ち」だと信じてゐるが、自分が「確實に福田氏が徴兵忌避の爲の工作を行つた」事を絶對に立證出來ない事實を、何とも思つてゐない。自分には、福田氏の「犯罪」を立證しなければならない義務がある事を、「会長」は認識してゐない。認識出來ないからだ。物事を立證し、正しい結論を出す、と云ふ事について、「会長」は訓練されてゐない。ただ、「会長」は「他人を非難する」事については、自らの持つ當然の「權利」のやうに思ひなしてゐる。學がない人間が、權利だけ意識すると、どんな飛んでもない事をしようとするか――その實例が「会長」であるのだが、全くもつて迷惑な存在である。