闇黒日記?

にゃもち大いに語る

押附けは良くないのか

<正しくなさ>を楯にとつて人に自分の價値觀を押附ける善良な人々がゐる。彼等ほど困つた存在はない。彼等は「正しくない」と指摘されると「正しさを押附けて人を追詰めるな」と言つて反論を封じ込める。
日本では他人の發言を封じ込め、言論の自由を侵害しても、「正しさを楯にとつて人を追詰めるな」と言へば許される。

もつとも、正しい側が損をするのは、日本に限つた事ではない。

正しさは絶滅すれば良いのか。
なぜ正しい側が正しくない人間を追詰めては行けないのか。私には「人を追詰める」事を、それ自體として「惡」と看做す感情が理解出來ない。と言ふより、正しい・正しくないの觀念を否定する人間が「追詰める事の正しくなさ」を執拗に言立て、人を追詰める事が理解出來ない。

しかし、正しいと「主張する人」が正しくない人を追詰めるものなのか。正しさそのものが正しくない主張を追詰めるのでないか。それなら、人が何う斯うと言ふのは、話を逸らしてゐるだけの事である。

「自由主義」と云ふ名の自由の自殺

自由主義者の人曰く「人は他人の權利を侵害しない範圍で自由に振舞へる」――この發想は、人が「他人の權利を侵害しない行動を自然に取る」事を前提とする。それは人が「或領域においては自由に考へない」事を意味してゐる。
自由を唱道しながら最初から自由を諦めてゐる領域があると云ふ事になる。
自由主義者の人は屡々「權利としての自由」を守れと主張する。その主張が極度に「論理的」になると、結果として、現實に人が「自由に行動する事」「自由に發想する事」を否定してしまふ。
觀念の自殺である。

正しさの押附けについて

日本には「言葉は変化するものだ」とか言つて間違ひを容認する安易さ・甘さがある。そして「若い人に媚びて自分が好かれようとする年寄りの態度」が屡見られる。
「正しい言葉」とか「正しい假名遣」とか云ふ言ひ方を「嫌だ」「嫌いだ」と言ふ人は、間違つた言葉遣ひをしてゐる人に媚びてちやほやされたいと思つてゐる。

全ての人が自分の信ずる正しさを他人に押附けようとしてゐる。なのに、「『正しい××』と言う人は嫌いだ」とか言ふ人がいつぱいゐる。
――そんなに自分が嫌ひなら自殺したらどうかと思ふのだが、みんな自分は大好きなので自分が「正しい」のではない事にしたいらしい。

「正しいHTML」と云ふ言葉は「自由なHTML」とやらを信奉してゐる人々に隨分反感を買つた。
なんでみんな「正しい」事が嫌ひなんだらう。間違ひと言はれるのが嫌だからだ。

そんなに正しい事が嫌ひなら、なんでみんな自分の意見を「自由」に表明してゐるのか――自分の意見の「正しさを自由に」表明してゐる、と自覺してゐないからだ。そもそも自由とは、間違つた事だけをしていい自由ではない。正しい事をする自由もある。
と言ふより、正しい事・間違つた事はそんなにはつきりしてはゐない。皆が自分の信じた正しさを表明し、それを批判し合ふ事で、我々は少しづつ正しさに近附いて行く事が出來る。

今の人はあたまのをかしい人が多くて、何をするのも自由だと言ひながら、正しい事をしたり言つたりする自由だけは絶對に認めないとか平氣で宣言したりする。
「正しい事を言うと言いながら間違いだらけの事を言っているからおかしい」と指摘する人もゐる。なるほど、それが事實なら、こちらも謝罪するしかない。しかしさうなら、あなたは「正しい事を言ふ」事それ自體を認めてゐるのでないか。自分の態度を反省した方がいい。
或は「本当に正しい事を言えないのなら、正しい事を言うなんて言うな」なんて、をかしな言ひ方だ。

「正しい」と云ふ事は「ない」と主張する人は、その「正しいと云ふ事はない」と云ふ主張それ自體が自分の信ずる「正しい」事の主張である事實に氣附かなければならない。
自分が信ずる正しさを主張しないで生きてゐられる人間は、この世に一人も存在しない。そこで「正しさを主張する人間は胡散臭い」とか言ふのは、自分を棚に上げて他人を上から目線で見てゐるから暢氣に言へるだけの事でしかない。
自分の態度を反省したら、何んな人間も常に正しさを主張してゐる事實が認識できよう。逆に言へば、他人に「正しさを主張するな」とか言つてゐる人は、自分の事を一度も見詰めた事がない。
「他人を批判するな」とか言ふ人は、自分がその言葉を他人に投附けて、他人を批判してゐる事實に氣附いてゐない。

「正しさ」を言ふ輩は野嵜みたいに「他人を不快にするから許せない」と「正しさ」を否定する人は言ふ。しかし、その人は、自分が他人を不快にしてゐる事實を絶對に認めない(野嵜を不快にした事實があるのに)。快不快で物を語る人は、自分の不快感は正しく、他人の不快感は間違ひである、と簡單に斷定する。身勝手である。
野嵜が嫌ひだから野嵜の大好きな「正しい」とやらを否定してやる、と言ふ「正しい否定論者」の人もゐる。この手の人は、「正しい」と云ふ概念を一般に否定したいのでなく、單に野嵜が不愉快に思ふのが愉快で愉快でたまらないから「正しい」を否定してゐる。嫌がらせ目的である。
「正しい」と「言ふ人」が嫌ひだから「正しい」の「概念」を認めない、と言つてゐる「正しいを否定する人」は、「正しい」と云ふ概念が「ある」事を認めないのでなく、ただ「正しい」と言つてゐる人が嫌ひで、「俺が正しいと云ふ概念を認めないのはお前のせいだよw」と相手を侮辱して喜んでゐる。氣に入らない相手を脅すために、相手の支持する「正しい」ものを人質にとつてゐるわけだ。

「愛国」について

右翼は左翼を「反日」と言つて罵つてゐるけれども、左翼は「右翼こそ反日」だと思つてゐたりする。どつちも「日本は素晴らしい國」と本氣で信じてゐて、「自分の信じ方こそが正しい」と言つて相手に押附けようとしてゐる。俺にしてみれば、日本なんてそんなに素晴らしい國ではない。

右翼「日本は素晴らしい國である」
左翼「日本は素晴らしい國になる爲に斯うしなければならない」
俺「別に素晴らしくなくても自分の國の事は幾らでも好きでいいだろ」

右翼「日本は素晴らしい國である」
左翼「日本は素晴らしい平和國家である」
俺「何でそんなに自分の國を褒めようとするんだ」

――「素晴らしい國だから、素晴らしくあらねばならない」みたいな發想は、寧ろ危險である。「素晴らしくないなら・駄目なら、さつさと潰せ・無くせ・殺せ」みたいな發想に即座に繋がる。

みんな「優れたもの」と「自分が好きなもの」とをちやんと區別してゐるだらうか。
「優れてゐる→好き」ならいいが、「好き→優れてゐる」では困る、と云ふのは、或意味常識だ。しかし、「優れてゐる→好き」の人を「好き→優れてゐる」と「思っているんだろ」と極附けて罵り、嘲る「信者を批判するアンチ」の人もゐて、これがまたたちが惡い。

日本人は一般に人の行動とその動機との關聯を的確に表現し得ない。斯う言ふと多くの人が反論するだらう。
日本人の九割がたが神社に御參りした事がある筈だ。ところがアンケートで日本人の殆どが「私は神道の信者ではない」と答へる。
神道とは何か」と外國人に聞かれた日本人は、きちんと説明出來るだらうか。辭書の定義を示しても意味はない。「神社に參拜したのに神道を信じてゐないとは何う云ふ事か」と聞かれて、相手の納得するやうな答を示せる日本人は何人ゐるだらう。
キリスト教イスラム等の「宗教を信ずる」のと違つた仕方で日本人は神道に接してゐる。神道を「宗教」だと言ふ人は、議論の時、意識して、殊更にその事を強調してゐるだけである、と云ふ事が非常に多い。
「神社に御參りする」のを「宗教の行爲」でないと認識し、「自分は神道の信者でない」と言ふ日本人が、「靖國神社に參拜する」のを「宗教的な行爲」だと言ふ時、「一般的な行爲」としての參拜と、「國家のレヴェルでの行爲」としての靖國參拜とを區別してゐる事になる。
正月に初詣に行くやうな一般人の行爲と、國家神道とを、ウェブで議論する人は大抵區別してゐる――勿論區別可能である。が、「個人的な行爲」としての初詣と「政治的・國家的な行爲」としての「國家神道」とを區別出來るならば、個人の物である道徳と國家的なものである政治とを區別して何が惡いのだらう。
私は、「政治(國家・「公」)と文學(道徳・宗教・個人・「私」)」との區別を強調するけれども、一方で日本人が一般にそれらを區別しない習慣がある事を知つてゐるから、初詣に行くやうな個人レヴェルの神道と國家神道とを區別しない態度を日本人がとるのは自然だ、と考へる。
日本の社會をありのまゝに見るなら、「公私」は常に混同され、神道と國家神道とは「一致する」ものだと言はねばならない。一方、觀念論・べき論をするなら、我々は「政治に屬する領域」と「個人に屬する領域」とを嚴密に區別して考へる習慣を持たねばならない。

安蘇谷正彦『神道とはなにか』(ぺりかん社)をながめながら……。

http://twilog.org/nozakitakehide/date-100825/

議論の勝敗

議論で、相手の矛盾を衝くのも、相手の主張の根本にある價値觀の問題を衝くのも、どつちも相手の結論に「問題あり」と指摘するのが狙ひだが、それが相手に對する勝ち負けを決めるだけの爲なら「メールで言へば良い」と云ふのは意味のない指摘――相手が聞入れなければ「何の意味もない攻撃」に終るだけだ。
公開の場での議論が、その場での論者の勝ち負けを決めるなんて事の爲に行はれる筈のものでないのは、どの論者も解つてゐる事と思ふ。なぜなら、公開の場におけるありとあらゆる議論は、觀客・ウオッチャーにそれぞれの論者がアピールする爲に行はれるものだからだ。福田恆存は「ショー」と呼んだ。
公開の場での議論はショーだ。しかし、觀客がゐるショーであつても、その觀客がその場での議論の勝ち負けを決める事で、勝敗が確定するものでもない。議論は、問題の檢討を、個人の中でやるのみならず、複數の人間でやる事で、より深く檢討する目的で行はれるものだ。
歌合での勝ち負けは、その場で決まる。平兼盛壬生忠見の勝負は、その場では兼盛の勝ちとされた。しかし、後世の評價では、忠見の方が優れてゐるとされる。
議論の勝敗は、「その場の雰圍氣」でどつちの勝ちなんて事が言はれるけれども、第三者の評價、後世の評價、より研究が進んでからの評價……等々によつて、逆轉する事がある。
ウェゲナーは、大陸を移動させる力が何か説明出來なくて、その場の議論では敗北したさうだ。

右翼卒業

「私は以前、右翼でしたが、今は右翼をやめました、だから私の右翼批判は信頼出來るものです」みたいな事を言つてゐる人々は、野嵜が元左翼だと告白したら一聯の左翼論に説得力を認めて呉れるだらうか。

リバタリアニズムについて

政治主義の勘違ひに陷る人は多い。經濟主義の勘違ひに陷る人も多い。しかし、經濟主義は即政治主義だから、どちらも頭の惡い勘違ひである。
經濟の事を知つてゐる人は物知りの筈で、イスラムの事も詳しい筈だが、イスラムの人々が經濟よりも正義を優先する事實を無視する。或は「正義を優先するイスラムは迷惑だ」とか云ふ「べき論」を言つて、觀察から平氣で逸脱する。井筒俊彦が指摘する通り、イスラムでは神樣が一番上にゐて、人間の生活を支配してゐる。
人間の活動を考へるならば、人間の物理的傾向だけではなく精神的傾向をも客觀的に見なければならない。ところが、多くの政治思想と經濟の思想は、人間の精神の存在を閑却するか、自分に都合良く歪曲するだけである。それらはみな、客觀的な科學ではなく、「アンチキリスト」の價値觀或は「代用宗教」である。唯物主義は宗教を否定する事によつて宗教に成り代はらうとしたもので、結局一種の「宗教」なのである。

リバタリアニズムはいんちきである。人間の精神を輕視し、單純に「人間」の發想を一括りにしてゐるからだ。もちろん、一々の人間の活動を客觀的に見る事も、リバタリアンは屡々主張する。しかし、若し本當に個別の事例を客觀的に見られるのならば、リバタリアニズムなる<立場>に據る必要はない。リバタリアンリバタリアニズムなる立場に依據してゐる。
リバタリアニズムは「イズム」であり、即ち「代用宗教」である。可なり原理主義的な性質が強い。

リバタリアンとして知られるやうになつた木村貴氏は、呉智英のファンとして活動を始め、松原正講演會を主催するなど、政治主義とは一線を劃す立場にあつた。ところが今の木村氏は、リバタリアニズムにはまつてしまつて、經濟以外の觀點がすつぽり拔け落ちてしまつてゐる。
經濟にしろ政治にしろ、それだけを考へてゐたら事實を見誤る。政治や經濟「だけ」で人間は動いてゐると考へてはならない。
木村貴氏、「道徳との絡みで經濟を考へる」と言つてゐた事がある。もともと經濟紙の記者だから經濟の事は考へる必要があつたわけだが、松原先生とのからみで道徳と經濟の關係を考察する事が木村氏の「急務」となつたらしい。そこで何か尤もらしい事を言つてゐるリバタリアニズムに「救ひ」を求めたやうなのだが、何時の間にか肝心の道徳を忘れてしまつたらしい。
現在の木村氏は、リバタリアニズムのスローガンを連呼するだけの原理主義者に成下がつてしまつてゐる。

木村さんはいい人なのだけれども、御人好し過ぎて簡單に「他人」を信じてしまふ惡癖がある。だからアレクセイ=田中幸一なんて見るからに怪しげな人物にすら欺された。アレクセイなんかと附合ふな、と云ふ忠告を木村氏は聞入れず、おかげでこちらは未だに迷惑を蒙つてゐる。今度、リバタリアニズムもほどほどにした方がいい、と忠告したら、最う話しかけるな、と言はれた。2囘裏切られたのだから木村氏とは絶縁である。政治主義を排してゐた木村氏が政治主義に轉向したのだから、Kirokuroは大喜びである。
うちの讀者の人には好い人=御人好しの人が多いのだけれども、さう云ふ人が屡カルト的な思想・宗教にはまつてしまふ。福田恆存も、私の讀者は私よりもずつと右に行つてしまふ、と嘆いたさうだ。

http://twilog.org/nozakitakehide/date-100819/

「自虐」について

「日本の左翼は日本を貶めようとしてゐる」と云ふのは嘘。

――と言ふより「公開の場に於る自虐」は全て「自らを傷附けるパフォーマンス」に過ぎない。
寧ろ激しいナルシシズムの發露である……。

矛盾

「ブログ」やツイート或は掲示板の發言だと「誰が言つたのか」「發言者の政治的立場はどうか」といつた事に多大な關心を寄せる人々が、「日本国憲法」や「現代仮名遣い」となると只管「内容が良いから良いのだ」と言ひ續ける。矛盾。

日本人は戰爭を「した」のか

日本人は「自分逹が戰爭をしかけた」と云ふ事實を、もつとちやんと意識すべきだと思ふ。戰爭に敗けた途端、「戰爭は惡い事ですやつては行けません」なんて言出すのは無責任だ。

戰爭に敗けた途端「戰爭は惡い事だ」とか「やつては行けない」とか言出すのは、戰爭に勝つた相手を否定しつゝ自分の敗北を無かつた事にしてごまかさうとする意圖があると受取られても仕方がない。「平和主義」と稱してみても、綺麗な言葉で胡麻かしてゐるのだと言はれたら反論のしやうが無い。
日本人は「自分が戰爭をやつたのだ」と云ふ意識が無い。「誰かに強ひられて戰爭をさせられたのだ」と思つてゐる。それは誰かに責任轉嫁する事で、自分では責任を取らないと云ふ事を意味してゐるのだが、日本人は誰かを責めれば自分は免責されると信じてゐる國民だから全然氣にしない。
日本人は、個人レヴェルでは「誰がやつたか」を異常なまでに氣にするが、市民レヴェル・國民レヴェルでは「何があつたか」のみを氣にする。だから日本人は、「日本人がアメリカに戰爭を仕掛けた」ではなく「昔、戰爭があつた」と言ふ。
「昔、戰爭があつて、人がいつぱい死んだ」だから「戰爭反對」――自分が戰爭を仕掛けて、やり返されて、それで彼我共に死者を出したのだが、當事者意識が無いから「戰爭反對」と言つても何時か「過ちを繰返す」事だらう。
日本人は、「戰爭になる」と言ひ、「戰爭をする」と言はない。戰爭が「自らの意志によつて行ふもの」だと云ふ意識を持つてゐない。だから「戰爭に正義なんてものはある訣がない」と極附ける。そもそも、正義を掲げて意識的に戰爭をした經驗がないだけなのに。

徴兵制の問題にしても、「人を殺すやう國に驅立てられるのは困る」「殺されたくない」と云ふ只管受身の考へ方か、「教育的目的で有用」等と言つた功利的な考へ方しか出て來ない。命を賭してでも守らねばならない國家の正義と云ふものが日本には無い、と云ふだけでこの體たらくである。
そもそも日本人は、ただ日本と呼ばれる地域にたまたま寄集まつて生活してゐるだけで一つの國家を作つてゐるに過ぎない。「なぜ國家を作るか」と言ふと、生活に便利だから、と日本人は答へる。集團生活を通して實現したい理想が、日本人にはない。それを日本人は當り前だと思つてゐる。
守りたい理念・理想・思想といつたものが日本人にはない。日本人にとつて大事なものは自分の命だけだ。日本人は、命を賭して守るべきものがない事の問題を感じず、命を失ふ可能性のある兵役を拒絶する感情だけを持つてゐる。
日本人は、誰かの命を守る爲に戰ふ、と云ふ事も考へられない。自分の命を失つたら全部終りだと考へるからだ。戰ひを避けて、自分が死ぬ可能性を最小限に減らす事が出來れば、その方が悧巧だと考へる。
否、今の日本人は「自分が死ぬ事は絶對に受容れられない」と言ふべきだ。昔の日本人はその點、まだ増しだつた。 

歴史的假名遣について

「現代仮名遣」が、「日本語の表記を簡單にしたら、日本語教育は樂になり、日本人の知的レヴェルも上がるに違ひない」と云ふだけの理由で主張されたものである事は、どれだけの人が理解してゐるだらうか。ゆとり教育を實施した論理と同じ理由だよ。

「現代仮名遣」を支持するのは、自分はゆとりだと言つてゐるのと同じ。

歴史的假名遣と言ふと、何も知らない人は必ず「てふてふ」と言ふが、それは蝶々の字音假名遣。
歴史的假名遣と一括りに言ふけれども、日本語には「體言」「助詞」「用言の語幹」「用言の活用語尾と助動詞」の區別があるから、それぞれの假名遣も區別しなければならない。
・助詞に就いては――「は」「へ」「を」が「現代仮名遣い」でも歴史的假名遣のまゝ殘つてゐる。これを不徹底と見るのが正しい。
・用言の活用語尾と助動詞について――歴史的假名遣は單純に文法の規則に基いて定めてゐる。だから大變合理的で解り易い。「現代仮名遣」は、「發音通り」が原則だが、用言・助動詞絡みでは發音通りにすると支離滅裂になるから、歴史的假名遣の法則をつぎはぎして胡麻かしてゐる。非常に解り辛い。

歴史的假名遣は、それ以前に無意識に書かれてゐた書き言葉を、語彙の新知識と共に文法の新知識に基いて整理したものだ。だから、從來の假名遣ひとは完全に連續してゐる。「現代仮名遣」は、書き言葉を話し言葉の立場から見て改變を加へようと云ふもので、書き言葉の連續性を破壞する事が目的である。
「歴史的假名遣を認められない、それ以前の自由な書き方なら認められる」と言ふ人がゐるけれども、嘘である。なぜなら、その人は、その大好きな筈の「自由な書き方」とやらを使はず、「現代仮名遣い」で書き續けてゐるからだ。ただの當てつけを言つてゐるに過ぎない。

明治期に歐米から近代文明が流入して、それで日本は近代化が實現した。けれども日本語の表記――假名遣――だけは江戸時代、日本人自身の手で近代化が試みられたのであり、日本人の數少い自發的な近代化の試みとして大變貴重である。
日本語を表音化せよとの主張は、慥かに古くからある。けれどもそれは、日本語それ自體の性質を尊重して言出された事ではない。ただ「進んだ歐米では漢字が使はれてゐない、ローマ字が使はれてゐる」と云ふだけの理由で言出された事だ。ただの劣等感が表音主義の原因である。
「現代仮名遣」の思想的源流に「表音的な書き方をする歐米諸國に比べて、漢字を使ふ日本語は遲れてゐる、日本語は駄目だ」と云ふ劣等感がある事を、今の人は自覺した方がいい。そんな事もわからないで、樂天が社内公用語を英語にすると云ふのを嗤つたりしても仕方がない。

過去を切り捨てる後ろめたさ

今の「神社神道」が何んな發言をしてゐるか、知らないで神道の事を論じたり――剩へ「國家神道」が何うの斯うのと惡口を言つたりしてゐる人が多過ぎる。
「國家神道が何かをやつた」と云ふ事實はない。そもそも「國家神道」なるものは存在しない。靖國神社やら何やらの神社はあつた。しかし「國家神道」なる制度は存在しない。戰後の人間が戰前と云ふ時代を解釋して名附けたのだ。
實際のところ、戰前は神道人も國家からの樣々な掣肘に遭つて相當苦勞してゐた。當時は「國家神道」だつたから神道人はいい思ひをしてゐたに決つてゐると想像するのは觀念的である。「國家神道」が能動的にそれ以前の神道を歪めたと言ふのは行き過ぎた想像であり最早妄想と呼ぶべきだ。

今の神社神道は、明治以來の「國家神道」が神道に與へた「惡影響」を承知で、それでもそれは近代以降の歴史的事實だとして――斯う言ふと誤解を生むだらうが――「負の遺産」も含めて、そつくりそのまゝ引繼がうと云ふ意志を持つてゐる。それが歴史に對して責任をとる、と云ふ事だからだ。

今の人は、近代と云ふものが餘りにも當り前のやうに思へてしまつてゐるから、江戸末期から明治、或はそれ以降の「近代の來襲」がどれほど日本人にとつて衝撃であつたかを全く意識できない。それは、「衝撃的であつた近代の到來」を「過去の歴史」として、敗戰後、切捨ててしまつたから。
現代に生きる日本人は、明治維新以來、苦勞して歐米文化・近代文明を受容れて來たのが我々と同じ日本人だと云ふ事を忘れてゐる。文明近代・歐米文化に適應する爲に、明治時代の先人が打出した樣々な政策も、自分逹とは無縁のものだと思つてゐる。戰後、明治以來の日本の歴史は自分逹とは關係ないと切捨てたからだ。

大日本帝國憲法も歴史的假名遣も「明治政府が不法に制定したものだ」――「だから切捨てていい」と、多くの日本人が信じてゐる。そして、民衆がゼロから「日本国憲法」や「現代仮名遣い」を作り上げた、と信じてしまつてゐる。全て戰後の教育が齎した勘違ひである。
近代に適應する爲に先人が頑張つて作つた大日本帝國憲法や歴史的假名遣を、たかが敗戰と云ふだけの理由で切捨てたのが、日本人の淺はかなところだ。
今の日本人は、自分逹にとつて當り前だと云ふだけの理由で今の憲法や表記を「正しい」と言張る。勿論、過去のものを切捨てるのは淺はかな事で、だから現代の日本人は後ろめたさを感じてゐる。だから、過去の切捨てを正當化する爲に樣々な理窟を言ふ日本人は、却つて居丈高な態度をとらずにゐられないわけだ。

歴史的假名遣の文章を見るたびにアレルギー症状を起こす多くの人は、自分が歴史的假名遣を切捨てた後ろめたさがあるから、逆に力強く歴史的假名遣を「拒絶」して見せる。後ろめたさを匿す爲に強がつてゐるだけである。
歴史的假名遣を、明治政府の創作と極附け、それ以前の表記と斷絶してゐる、と言張る人は、「さう云ふ事」にする事で自分が歴史的假名遣と斷絶した「現代仮名遣い」を使ふ後ろめたさを感じないようにしようとしてゐる。何れにしても「現代仮名遣い」が過去の日本語の表記と斷絶してゐる事實は變らない。
歴史的假名遣がそれ以前の表記と斷絶してゐる事を「立證」したところで、「現代仮名遣」がそれ以前の表記に繋がるわけもなく、「現代仮名遣」が不當な表記である事實は動かない。歴史的假名遣を攻撃し、その「不當性」を幾ら言立てても、「現代仮名遣」は正當化されない。空しい行爲である。

私は「歴史的仮名遣は絶對に正しい」等と言つてゐない。私は「現代仮名遣」が間違つてゐると指摘してゐるだけだ。それに對して「歴史的假名遣は本當に正しいのか?」等と疑問を呈する人が驚くほど澤山ゐる。けれどもそれは何の批判にもならない。批判の仕方が解らない人は頭が惡い。
「現代仮名遣」はただ「現在使はれてゐる」と云ふだけのものでしかない。それは事實であるが、事實は當爲と別の物だ。「現在使われているから現在使われなければならないのである」と云ふ理窟は成立たない。ところが「現代仮名遣」を正當化しようとする人はその成立たない理窟を當り前のやうに言ふ。
「現代仮名遣い」が現在使はれてゐるのは、それだけの理由があるのである――なるほど「それはその通り」だ。けれども、その理由が正當なものであるかどうかは、疑念を以て檢討すべきだらう。「面倒だから嫌だ」――成程、ならば政治の問題にも一々文句を言ふのは止めたら宜しからう。

相對主義

戰前の社會を右寄りだと思つてゐる人は、戰後(今)の社會が左寄りである事實を忘れてゐる。

少くとも戰前の人が見たら戰後は左に寄り過ぎてゐると思ふだらう。

教育の結果としての「現代仮名遣」信仰

我々は、子供の頃から「現代仮名遣い」や「日本国憲法」は「良いものである」、或は「今の日本は最高に良い国である」と教へ込まれてゐるから、それらを疑ふ事が出來ない。
我々は、左翼的で進歩的な思想を子供の頃から「正しい」ものとして教へ込まれ、「常識」として受容れてゐる。だから少しでも反動的に見えるものに接すると、かーっとなつて、向きになつて罵倒し始める。

日本に存在する反體制派の人は全員、一人の例外もなく、國に據る教育によつて「反體制は正しい」と信じ込むやうになつた。實は、反體制派は、現在の體制に深く入り込み、體制の力を利用して反體制教育をやつてゐる。
我々が今の日本の體制を「正しい」と信じ、新しいものを「良い」と信じてゐるのは、子供の頃にさう教育されたからに過ぎない。「あたらしいさんすう」云々。
我々は、子供の頃の習慣を、「當り前の事」として覺え込み、機械的に守らうとする習性がある。しかし、それが餘りにも「當り前」に感じられる爲、多くの人はそれらが外部から「教へ込まれた」だけのものである事を忘れ、普遍的で客觀的な眞理と誤つて認識してしまふ。
子供の頃に「正しい」ものと教へられた事が、實は誤であると指摘された時、人は屡々、感情的に反撥し、拒絶しようとする。

教育は常に正しいとは限らない。

教育は一種の洗腦である。

教育は一種の洗腦だと知つてゐる人でさへも、自分がされた洗腦を解かれたがらない。意地でも一度された洗腦は守りたいと、多くの人が思つてゐる。
かつて教育で學んだ「常識」と違ふ事を言つてゐる人を見ると、人はその内容を冷靜に理解しようと出來ず、「これはひどい」等と言つて感情的に反撥し、排斥し、自分は冷靜だ・自分は正しいのだ、と言ひ聞かせ、自分を安心させようとする。
言葉は社會的な取決め事に過ぎないと知つてゐる筈の人が、「現在通用してゐると云ふ只それだけの取決め事」に異常なまでに拘り、その拘りは無意味だと指摘してゐる人間を「昔の言葉に拘つてゐる」などと言つて嘲る。

過去のものを守りたいと思ふのは自然な感情だが、今のものに拘るのは異常な性癖である。

「現代のかなづかい」を「我々自身のもの」として「保守」しようとするのは自己中心的な態度で、傲慢だ――と論理的に判定せざるを得ない。歴史的に引繼がれて來た假名遣を「自分を超越した存在」として認めるのは、自己を滅却した態度であり、自己を滅却するのは謙虚たらんとする意志を示すものである。
我々は、自分のものを他人に押附ける事しか出來ない。「現代仮名遣い」を「自分逹のもの」だから守れと言ふ人は、押附けをやらうとしてゐる。けれども、我々の外部の存在である歴史的假名遣を押附ける事は出來ない。出來るのはただ從ふ事だけである。

敗戰國の平和主義とやら

戰後の日本が敗戰國である事を自覺して、「謝罪と反省の念を持つて生きる」と云ふのも、それはそれで「あり」です。けれども、その場合、戰爭による勝つた負けたを認める、と云ふのだから、戰爭それ自體を正義の行爲と認めなければ行けません。
「してはならない戰爭で負けたから反省する」――「戰爭反對」なんて言つてゐる時點で嘘です。

そもそも、戰爭なんて數千年前からえんえん繰返されてきた事だし、今更大袈裟に「戰爭反對」なんて言ふのはナイーヴ過ぎます。全く、「本を讀め」と私も聲を大にして言ひたいですね。